私の所属する俳句会の一つ、西武線沿線句会(東京・練馬区)に奈良雅子さんという、還暦過ぎにして若々しい女性がおられる。俳句の経験はさほど長くないが、句作りの腕前はなかなかのもので、句会のリーダー的な役割も引き受けている。二〇一九年の五月のこと、雅子さんが私に声を掛けてきた。
「俳人だった曽祖父の遺品が出てきました。見て頂けますか」
雅子さんの曽祖父なら明治生れか、幕末生れか。ひょっとすると正岡子規や高浜虚子と同年配かも知れない。すると雅子さんは続いて「雪中庵雀志の弟子で、俳号は桜州という宗匠でした」と言う。「雪中庵」と聞いて「おや」と思い、「宗匠」と知って「ほう」と驚きの声を発した。
雪中庵(雪門とも呼ばれる)は芭蕉の高弟・服部嵐雪の創立した一門である。江戸時代中期から明治時代初期にかけて「俳句界のトップ集団」と言えるほどの勢力を築いた時期もあった。雀志(本名・斎藤銀蔵)はその雪中庵主宰の八代目であった。雅子さんの曽祖父・謙一氏は雀志の直弟子であり、一門の宗匠の一人ということになる。
雀志、つまり斎藤銀蔵氏は当時、三井銀行の横浜支店長を務めていた。ある銀行の事情通に当時の雀志の役職について尋ねてみた。「明治中期の三井の横浜支店長? それは相当な立場だ。本社の役員だったかも知れない」という。
その人はさらに「当時の支店長と今の支店長とでは格が違う。ボーナスは支店行員の全員分くらい貰っていた。もっとも忘年会などの費用はすべて支店長持ちだったが……」などと語っていた。雀志は当時、大銀行の主要な支店のトップ、そして俳句の大集団・雪中庵のリーダーであった。ともかく双方とも、たいへんな役目である。
江戸で長らく「雪中庵」と一、二を競い合ってきた集団に、宝井其角の立ち上げた江戸座(後に其角座、其角堂)があった。芭蕉の高弟として一、二を争った其角と嵐雪。その二人の率いる集団の意地の張り合いは、江戸時代から維新を超えて明治時代まで続いて行った。両派の若い者同士による酒の上での争いもしばしば、などと伝えられている。
ところが明治時代中頃に至って突然、正岡子規という元気のいい若手の論客が登場。彼の勤務する新聞社「日本新聞」の紙面を通じて、古い体質を持つ「旧派」を批判し始めた。子規が攻撃の中心目標と見定めたのは旧派のビッグ2.其角座と雪中庵。もう一つ加えれば、三森幹雄が率いて大発展中の俳諧明倫講社グループと言っていいだろう。
雅子さんの曽祖父・謙一(桜洲)氏は一八六四年(元治元年)の生れ。子規の三歳年上である。没年は一九二三年(大正12年)。子規没後の二十年余りを生きたことになる。本業は宮内庁御料局の林野管理職(技師)であった。
子規が新聞日本の紙面で旧派批判を書いていた頃、謙一氏は宮内庁勤務を始めていた。子規の論調によって、旧派への悪評が俳句界の常識になって行くのは没後のこと。謙一氏は自分たちのグループが後世の俳句史の中で「卑俗・陳腐」などと嘲りの対象になるとは夢にも思わず、俳句作りを生涯の楽しみにしていたのだろう。
その謙一氏の遺品が旧居(東京・杉並区阿佐ヶ谷)の箪笥の中に百年間ほど眠っていた。旧派の評価はその間に急降下。一方、正岡子規や高浜虚子らホトトギス派の業績は高く評価され、俳句史の明治・大正期については、彼らのこと、つまり新派のことばかりが伝えられてきた。一方の旧派は無視ならまだしも「拙劣な句を作る集団」とされ、昭和、平成を過ぎ、令和の今日に至っても、その状況は一向に変わっていない。
私は二〇一一年(平成23)に「子規は何を葬ったのか」(新潮選書)を書き、子規によって否定された月並派を私なりに弁護していた。俳句史の外側に追いやられてしまった俳人たちの作品や業績なども、不完全ながら記している。雅子さんは私なら謙一氏・桜州宗匠の遺品に興味を示すはず、と考えたのだろう。
謙一氏の遺品(俳句関係のもの)は小型の蜜柑箱ほどの箱に収まり、私の所属するNPO法人双牛舎(目的は俳句振興)に送られてきた。中身は雪中庵の会報類、俳句に赤筆の入った手紙類、投句募集のちらしなどなど。手書き以外のものはおおよそ木版らしく、ざっと目を通したところ、細かい崩し字ばかりが並んでいた。解読を一応、試みたのだが、私にはどれもが難物で、読んでみようと思っても、やがてぼんやりと資料を見つめている、という有様であった。
遺品の中に二つ「何だろう」と首を傾げたものがあった。奉書と思われる厚めの和紙が何重にも折られ、長四角形に畳まれている。所どころ薄茶色の染みが浮かんでいた。一つを取り上げ、一回、二回と広げて行き、新聞紙一頁ほどの大きさになった時、「おっ」と声を挙げた。実に細やかな崩し字による俳句がびっしりと並んでいたのだ。
二枚とも右下に彩色の絵が載っていた。浮世絵ほどの繊細さはないが、版画であることは間違いない。その一方の図柄は新春の萬歳(万才)のようで、小舟の上に烏帽子を被った太夫がいる。キセルを持ち、おどけた仕草をしているのは才蔵だろう。後方には艪を持って小舟を操る船頭がいる。もう一つの摺物の図柄は「虫籠」で、籠の中にキリギリスのような虫が描かれていた。こちらは秋の図柄になるのだろう。
双方とも挿画以外のスペースに二百句余りの俳句が、びっしりとすき間なく並んでいた。木版刷りと見当を付けたが、ともかく見たことのないタイプの刷り物である。一枚の左下末尾には「明治三十九年新陽」、もう一枚には「明治四十一年秋」と記されていた。西暦にすれば一九〇六年と一九〇八年の発行である。
ネット情報を当たったところ、早稲田大学図書館のホームページに俳句の摺物に関する項目があり、以下のような解説が載っていた。
「俳諧一枚摺」とは、一枚の紙に印刷された俳諧関係の摺物のことで、売り物ではなく、専ら俳人たちの間に配られていた。歳旦、春興、秋興、あるいは祝賀、追善などのために、主宰者が独自の趣向を凝らして制作し、絵が加えられたものが多い。俳諧と絵が一体となった独特の様式は江戸中期から明治にかけて人々の間で流行し、趣味的な出版物として広く楽しまれた。
謙一氏の遺品はまさしく「俳諧一枚摺」であった。畳まれた二枚の中にメモ帳大、木版の小さなちらしが一枚ずつ挟まっていた。文面はほぼ同じで、〝小舟上の新春萬歳〟の方には次のように記されている。
春興大摺物 御一名入花(俳句掲載料)三十銭 歳旦初春の題の内 右十一月三十日〆切 御壱名一句が入 大広奉書一枚 画一枚 美々摺立来 東京下谷区中根岸丗五番地 雪中庵執筆 三十九年分
雪中庵に属する会員の場合、自作一句を大摺物へ載せるなら、掲載料として三十銭支払うことになる。あるネット情報によれば、明治期の一円は「現在の約三千八百円」にあたるそうで、当時の三十銭は現代であれば千円ほど。掲載料はその程度なのか、と思うが、例えばこの摺物を「新年のお祝いに」と十人の知人に贈るとすれば、十枚分の支払いとなるはずだ。現在なら一万円余りの負担となるわけである。
二枚の大摺物は新聞一頁に僅かながら余る大きさであった。どこかで板木を継いでいるのかと目を凝らしても、浮世絵の二枚続きや三枚続きにあるような境が見当たらない。その文字や挿画の精妙さから、これが本当に木版の印刷物なのか、という疑問も湧いてくる。
大摺物の正体を調べて貰えそうな所をネットで調べたところ「ミズノプリンティングミュージアム」(東京・中央区入船)という館名が目に留まった。ミズノプリティックという印刷会社に所属する博物館のようで、古い印刷機、印刷物などを集めているらしい。館長の水野雅生氏(ミズノプリティック会長)とコンタクトを取って数日後、何点かの資料を携えて中央区の入船に向かい、館長にまず大摺物の鑑定をお願いした。
「おっ、これは……、俳句の大摺物ですね。話には聞いていたが、見るのは初めてです」「みごとなものだ。貴重な文化財と言っていいでしょう」。何とも嬉しくなる館長の反応であった。
「木版ですか」と尋ねると「もちろん、木版です。一字一字に木目が見えます」。大摺物の上に置かれた大きな凸レンズに目を当てて見ると、なるほど微細な文字の一筋一筋に木目の模様がはっきりと浮んでいた。
大摺物に並ぶ投句者の上に投句先の地域が記されていた。明治三十九年発行の大摺物の方で説明しよう。明治も末期と言える時期の印刷物なのに、投句者の居住地は安房、筑後、福嶋などとあり、旧藩名がかなりある。そしてその後に続く居住地名を見て我が目を疑った。台湾の基隆、そして清国(中国)の大連という、外地名が二つ並んでいた。日本中どころではない。雪中庵には海外からも句が送られていたのだ。
台湾は十七世紀後期以降、清の支配下にあったが、日清戦争終結直後の一八九五年(明治28年)から日本の統治が始まっていた。その台湾の北端にある基隆は江戸時代から日本にとっての重要な貿易港で、賑やかな夜市で知られている。大摺物への投句者(俳号)は葆真、霞汀、青山、如扇など七人の俳号を数えることができた。
一方の清は明治初期、日本との関係で大きな変化があった。日清修好条約(平等条約)が成ったのは維新後間もない一八七〇年のこと。日露戦争(一九〇四年~〇五年)後の大連はロシアの管理から離れて日本の租借地となり、わが国と最も深い関係を持つ都市になっていた。大連からの投句者では友月,不如、芙蓉の名が読み取れた。
※清の国名は辛亥革命を経て一九一二年(明治45年~大正元年)、中華民国となる。
日本各地からの雪中庵への投句先も、国内の隅々まで広がっていた。北海道の後志(小樽を含む北海道の支庁の一つ)、羽後松嶺(旧出羽国の松山藩)、下サ鏑木(下総国香取郡鏑木)、武ノ金沢(旧・武州金沢藩=六浦藩)などなど、現代人には馴染の薄い地名が認められる。そして最も驚かされたのが「小笠原島」からの投句であった。
小笠原島は東京都から東南約千kmの洋上にあり、その昔は無人島であった。一五九六年、小笠原定頼によって発見され、十九世紀以降にはハワイや米国からの移民があった。一八七五年(明治8年)から日本の領有となり、一八八〇年に東京府の管轄となって、父島に小笠原出張所が設けられている。
小笠原からの大摺物への投句は、明治三十九年摺と明治四十一年摺の双方で確認出来た。明治三十九年の投句者は素玉、月舟、華六、一翠の四人。その二年後、四十一年発行の大摺物では一翠の名が消えていたが、友月、半舟、雨蕉の名が増え、人数は六人になっている。小笠原にはすでに東京市の役所や学校などが置かれていた。句の作者はそれらに勤務する役人や教員たちではないか、と私は想像している。
二枚の大摺物が作られたのは子規の他界から五年ほど後のことだ。そんな時期、雪中庵の勢力は小笠原を含む日本の隅々から中国、台湾にまで及んでいたことになる。この摺物に並ぶ各句は当然、新年のお祝いとして詠まれており、俳句作品として評価するようなものではない。しかし日本の隅々から、さらに外地からも俳句が送られてくる状況には、目を見張るばかりだ。現代を遥かにしのぐ俳句の隆盛時代、と思わざるを得なかった。
私はこのような状況を知り得て、ある種の安堵感を覚えていた。すでに月並の句集を作ろうと決めていたのだが、当時の旧派の実態は厚い雲の内側に隠されていた。もし旧派が壊滅的な状態になっていたとしたら、「月並俳句集」を作る意味は薄れてしまう。
しかし桜洲宗匠の遺品・二枚の大摺物によって、心の迷いは払拭された。明治後期から大正期、つまり子規没後の時代に至っても、旧派・雪中庵の集団的繁栄は間違いなく続いていたのであった。
明治三十九年製作の大摺物に描かれた小舟上の新春万歳(萬歳)の図柄について説明しよう。舟の上に烏帽子を被った太夫がいる。隣にキセルを持っておどけた仕草をしているのは才蔵だろう。後尾には艪で小舟を操る船頭がいる。まさしく新年に各地を巡る万歳の様子である。
しかしこの一行は、なぜ小舟に乗っているのだろうか。正月に三河や尾張などからやってくる万歳は町中や村々を稼ぎの場とし、店や家々に寄って万歳を演じ、ご祝儀をもらって次の町や村へ去っていく。ところがこちらは小舟の上なのだ。
絵図の左側に並ぶ中の一句に、ふと目が止まった。
新年の川おもしろし待乳山 秋聲
待乳山は東京浅草・隅田川河畔にある小高い丘で、江戸の人々の間では「聖天様」として広く知られてきた。現在も隅田川を望む小山の上に待乳山聖天(正式名は本龍院)と呼ばれる寺院がある。聖天の別名・歓喜天が示すように、花柳界の信仰が篤く、江戸の昔から今日まで、特に初詣は大賑わいを続けてきた。
正月になると、待乳山の岸辺に萬歳(万才)の一行を載せた小舟が寄ってきて、舞い踊りを披露していたのだ。聖天様に初詣の人々は待乳山の裾に集まり、岸辺の小舟萬歳に小銭を投げていたのだろう。なお「待乳山」の読みは「まつちやま」だが、大相撲の年寄名・部屋名の「待乳山」も含めて、江戸っ子は「まっちやま」と発音している。
二つの大摺物の中に「(田辺)機一」「(松本)蔦斎」の句があった。機一は雪中庵からすれば、かつてはいがみ合うほどのライバル集団・其角堂の八世である。しかし機一が師・穂積永機から其角堂の主宰者を継承して十年ほど後に大きな変化があった。其角堂と雪中庵は芭蕉二百回忌法要の協力を経て和解していたのであった。
一方の松本蔦斎は東杵庵五世を名乗り、俳句研究家として知られていた。二人は雪中庵の新年を祝う企画・春興大刷り物に、他派の宗匠としてお祝いの一句を寄せたのだろう。新派の台頭により、旧派各派は互いに歩み寄っていたのかも知れない。
上記「待乳山」の句の作者・秋聲にも注目したい。この人は作家・徳田秋声ではないだろうか。尾崎紅葉に弟子入り、後に自然主義文学者として広く知られた。「黴」「爛」「あらくれ」などの小説を書く傍ら、俳句も作っている。「近代俳句のあけぼの」によれば秋声は「紅葉から文章を書くのに役立つと言われ、句作を強制された」という。ただし「待乳山」の句の作者についてはこれ以上、調べようがなく、徳田秋声の作とは断定はできない。
※本書の後半「月並千人千句集」の「夏」に徳田秋声の句「月更けて~」を掲載している。
奈良謙一氏・桜州宗匠の遺品によって、当時の旧派の具体的状況がぽつりぽつりと浮かび上がってきた。雪中庵は東京を中心に日本国の隅々から台湾や大陸にまで勢力広げていたのだ。当時の旧派のスケールは、例えば雪中庵という一派だけをとっても、新派(子規派)全体を大きく上回っていたと想像される。
日本の社会的構造は当然、維新後に大きく変わった。歴史的な政権の交代により、藩ごとの境界取り締まりは廃止された。国内の行き来は自由になり、鉄道、郵便などの発達によって旅行や通信も容易になる。東京から遥かに離れた地域の人々も、俳句の著名集団(旧派)との交流が可能になった。雪中庵、其角堂などはこのような社会的変化の中で、勢力範囲を広げていたのではないだろうか。
奈良謙一氏遺品の中に、当時の著名俳人などから贈られた数十枚の短冊があった。中に「和風」と署名したものが二枚。一枚には「桜洲先生の栄転を祝して」とあった。贈り主は前項で紹介した俳句界の超大物・安藤和風である。短冊は宮内庁に勤務する謙一氏の昇進などを祝したもののようだ。二人は同じ秋田生まれ。謙一氏が和風の二歳年上になる。互いの関係は二枚の短冊以外のことは何も分からないが、同郷の俳人同士としての交遊があったと想像される。
短冊の一枚には「桜洲先生」と書かれていた。謙一氏の宗匠立机は一九〇六年(明治39年)、四十二歳の時である。短冊に「先生」とあるのは、謙一氏が単に年上であるだけでなく、俳句の宗匠という立場への尊称だったのかも知れない。
謙一氏・桜州宗匠の遺品によって、雪中庵の勢力範囲などを知ることになり、私の「月並千人千句集」への思いは固まってきた。同句集の掲載句として選んだ句の作者たちの立場は実にバラエティに富んでいた。維新前の立場で言えば、城主、幕臣、各藩の藩士、学者、僧侶、豪商、医師などから吉原の妓楼主人までが並んでいた。幸田露伴、二葉亭四迷、尾崎紅葉、泉鏡花、巌谷小波ら明治期の著名な文学者、小説家も顔を揃えている。
そしてさらに強調したいのは、農山村や漁村などから生まれていた俳句作品である。働く場から生まれた句がかなりあり、しかもきらりと光る魅力的な俳句作品を相当数、選ぶことが出来た。各分野にわたる俳句愛好者があらゆる分野の人々が俳句を楽しむ広大な世界が成立していた、ということだろう。
先に挙げた俳句の詠み手の職業・立場を今日の社会に当てはめてみたい。政府の高官、自治体の長、大会社の社長や重役や地域の有力者たち。著名な文学者、小説家、宗教人、画家ら。医師、教員、芸能人、農業、漁業などに携わる人々。それに芸能人や水商売の人々までも含めた人々が、俳句社会の全域に存在していた。
芭蕉の頃から今日までは三百五十年間ほど。この間の俳句の世界をたどってみて、月並時代ほどに繫栄した時代があったとは思えない。そして私の思いはこのような、現代に似て現代をずっと上回るような俳句世界が、いつの間にか俳句史からほぼ消え去ってしまったという現実に戻ってしまうのだ。
「月並」と呼ばれる俳句の世界は、江戸後期から維新を経て明治期へ、言葉を換えれば近世から現代へという、史上に稀な激動の時代の中に存在していた。ところが月並「千人千句集」に並ぶ多くの句を鑑賞すると、実に和やかな、平和な雰囲気を感じてしまうのだ。一例として夏の季の「清水」の項に並ぶ三句を挙げてみた。
この句集に載せるための第一次候補として選んだ句はたぶん三千を超えていただろう。その中から第二次選句によって千百句ほどに絞り、続いて季語別に分類した後のこと。夏季の「清水」の項に並ぶ以下の全三句に目が留まった。最初の候補句中に「清水」が何句あったかなどは全く覚えていない。ともかく掲載句として残ったのがこの三句であり、順序は次のように並んでいた。
- 巡礼の物縫ふてゐる清水かな 川村烏黒(近)
- 一生の舌打ちひびく清水かな(辞世) 南部畔李(近)
- 誰となく掃除して置(く)清水哉 金枝(井)
最初の「巡礼の物縫ふてゐる清水かな」の作者・烏黒は幕臣で後に大審院の判事、現代なら最高裁の判事になった人である。句は旅の途中で目にした人の様子を詠んだのだろう。清水の湧く場所を見つけて近づくと、巡礼の人が清水の湧く傍らで、繕い物でもしていたのだ。ただそれだけのことを詠んでいるが、何かを心に秘めて祈りながら長い旅を続ける人への作者の思いが、何気なくふんわりと浮かんでくる。
「一生の舌打ちひびく清水かな」の句の作者・畔李(南部信房)は陸奥八戸藩の藩主であった。「近代俳句あけぼの」には「名君と呼ばれていた」とある。しかしこの殿様の治世は飢饉が連続する頃であり、苦難が連続していたという。天保六年(1835年)没。
句は死の直前、末期の水を飲む際を想定し、作られていたのだろう。邸内か近くに名水の湧き出る場所があり、この殿様はいつもその清水を愛飲していたのだ。そして死期が迫り、いよいよという時、その清水で喉を潤し、かねて用意の辞世を臣下に渡した、と私は想像する。殿様は今わの際に自らの人生と治世を振り返り、「一生の舌打ち響く……」、つまり「しまったなぁ。あの時は……」と回想しているのだ。このような殿様こそ「名君」と呼ぶべきかも知れない。
三句目「誰となく掃除して置(く)清水哉」は井月編「俳諧三部集」の「余波の水くき」から選んでいた。句の作者は「イナベ」の「金枝」と表記されている。現・伊那市の「伊那部宿」に住んでいた女性の金枝さんだろうか。この人は近隣に湧く清水を常に気を掛けているようで、「誰となくいつもきれいに掃除している」と詠む。ただそれだけの句なのだが、辺りの住民の心根、そして句の作者・ご本人の人柄が快く浮かび上がってくる。
「清水」の項に載せた三句を見つめながら、「いい時代だったのだ」と思った。人々は味わって快く、心に沁み込むような句を作っていた。この時代の実情は決して豊かでも、平和でもなかった。維新前後という、辛く、苦しみの多い大波乱の時代だったのだが、句によって表出された人々の心根は善良にして温かである。
「千人千句集」の編集中に何度か考えた。多くの句から、快く好ましい雰囲気がふんわりと浮かんでくるのは何故だろうか、と。おそらく当時は、各句に見るような、優しい思いを抱く人々が多かった、ということなのだろう。そして俳句という文芸の本質もまた、そのようなところにあるに違いない、と私は思うようになった。
【「千人千句集への道筋」完】