月並俳句への誤解は如何にして生まれたのか、そして俳句の研究者や俳句ジャーナリズムは、この時代をどのように捉えてきたのだろうか。
これらについての答えを出すには、やはり正岡子規著「俳諧大要」から出発せざるを得ない。同書は前述のように俳句の初心者を読者に想定した俳句作りのテキストである。ところがその文中の本来の趣旨から大きく離れた短い言葉が、おそらく昭和の初期に独り歩きを始め、やがて俳句史の中に架空の「月並時代」と「月並俳句」を生み出してしまった。
二度目の引用になるが、問題の一行をもう一度、掲載する。
天保以後の句は概ね卑俗陳腐にして見るに堪えず。称して月並調といふ。
「俳諧大要」の中に、この一行を書いた時、子規の中に「百余年間の俳句とその時代を論ずる」といった意識は全くなかったはずだ。心のふとした動きで筆が滑ってしまい、その一行がいつの間にか独り歩きを始め、俳句史中に「月並」という架空の時代を築き上げるまでに至った、と私は考えている。
「俳諧大要」の問題の一行に関わる最も基本的な問題がまだ残っていた。子規は「月並風」に該当する俳句作品を、全く例示していなかったのだ。そして後世の俳句史も、旧派の俳人の作品がどのように卑俗・陳腐なのかについては子規による「天保以後の句は概ね──」という子規の短い言葉を挙げるだけで、例句を一切挙げていない。
子規は同書の中で「俳句に貞徳風あり、芭蕉風あり、其角風あり……」などと、俳句の各流派について語った。さらに「梅に鶯」「柳に風」などの定型的な趣向に触れ、日本画と西洋画の違いなどを論じ、言葉(表現)の「たるむ」「たるまぬ」について考えをしばらく述べていく。
俳句作りの指導書の中で以上のように述べても何ら問題はない。ところがいつの頃か、俳句史家、文学史家に類する人が、例の一行に目をつけてしまったようだ。天保時代以降の俳句界を一まとめに論ずるにはまことに便利な言葉である。そして「これだ」とばかりに引用し、続いて別の人がまた引用し……、やがて百年余の暗黒時代が誕生したのだろう。
子規は実際のところ、自らが「月並」と呼んだ時代の句と月並各派の作品をどのように考えていたのか。彼は一八九六年(明治29)、新聞「日本」の読者からの質問に答える形で、次のように抽象的に説明している。
第一、我(子規ら日本派=ホトトギス派)は直接に感情に訴えんと欲し、彼(旧派)は知識に訴へんと欲す(略)。第二、我は意匠の陳腐なるを嫌へども(略)、彼は陳腐を好み、新奇を嫌ふ傾向あり。第三、我は言語の懈怠を嫌ひ(略)、彼は懈怠を好み、緊密を嫌ふ傾向あり。第四、我は(略)雅語、俗語、漢語、洋語は嫌はず、彼は洋語を排斥し……
などと続く。
子規はそのころ、自身が知り得た旧派の作品に、そのような傾向を感じていたのかも知れない。しかし彼のこのような月並批判の言に、私は意見を述べないことにする。なぜなら子規はこの後も月並調の特徴について繰り返し書き、その度に新たな考えを述べているからだ。「墨汁一滴」(一九〇一年・明治34)では次のように書いている。
「月並調といふ語は一時便宜のために用いし語にて、理屈の上から割り出したる語にあらねば、其の意義甚だ複雑にして且つ曖昧なり」。子規自身がこのように述べているのだ。
月並句に対する子規の主張を「論文」という次元に置いて考えると、最大の欠点は前述のように実例(例句)を全く挙げていないことにある。例えば「知識に訴える」「陳腐を好む」「懈怠を好む」とは、どのような句を言うのか。何となく分かるが、実物を見ずに、そのような句を頭の中に作り上げるのはなかなか難しい。
時代を遡って月並時代より百年余り前、室町時代から江戸時代の作品集などを見れば話は別である。あちらにも、こちらにも、という感じで、月並時代以前の〝月並調〟に出会えるのだ。
例えば新編古典文学全集(小学館)の「近世俳句集」を開いてみる。その最初に出て来る「俳諧の始祖」山崎宗鑑の第一句が「にがにがしいつまで嵐ふきのたう(蕗の薹)」。そして第二句が「満丸に出でてもながき春日哉」である。それに続く荒木田守武、松永貞徳らの句の多くも、洒落、掛け詞、縁語、俗語などを用いて、卑俗性や滑稽味を生み出している。
このような江戸初期~中期の俳風を、文学と呼べる形に正したのが松尾芭蕉であった。そして芭蕉の弟子たち、つまり「蕉風」を継承する宝井其角、服部嵐雪、各務支考らや彼らが創立した各派も、とかく俗に流れがちな句作りの方向を修正しながら、それぞれに発展を続けて行った。
くだけた調子で人の笑いを誘う諧謔的な傾向は俳諧(連句)の時代から流れの中にあった。例えば江戸中期の雑俳集「武玉川」は、頓智、諧謔のまさに集成集で「そのエスプリが川柳に流れ込んだ」などと説明されている。
しかし「其角座」「雪中庵」「俳諧明倫講社」など、現代では「月並」とされる各集団はすべて芭蕉流を引き継いでいた。その理論は時代を追ってカビ臭くなっていたにしても、各派の主宰者、指導者らはおおよそ、芭蕉やその高弟・宝井其角、服部嵐雪らの研究者であり、芭蕉の理論を守るという思いを持ち続けていた。
年代的に「月並派」と言える俳人の中から、俳句史上最も重要な仕事を成し遂げた二人を挙げることにする。
一人は水戸藩士・岡野湖中(三世)(一八三一年=天保二年没)である。その湖中を誠心誠意支援続けたのが、江戸蔵前の札差の番頭・豊島由誓(安政五年=一八五八年没)であった。この二人が協力し合い、俳句の歴史上初めて芭蕉作品を集大成し、俳句史上最初の芭蕉全集「俳諧一葉集」を出版した。後の世の俳句史書の中でも、二人はともに芭蕉全集の編集・刊行に「心血を注いだ」と記されている。
由誓はまた、句作りの面でも、同時代のトップクラスと見なしていいだろう。「前期旧派」と呼ぶべき人たちの作句例として、由誓の五句を挙げて置く。(いずれも「近代俳句のあけぼの」から)
- 雪解けや木の実年貢の山続き
- 鳴神に遠く桜の咲く日かな ※鳴神は雷のこと。
- 雲に入る鳥や旅せぬ人もある ※季語は「鳥雲に入る」(春)
- 蚊帳吊って遠くなりけり物の音
- 乾鮭や埃払えば音のする
一九〇二年(明治35)、正岡子規が亡くなり、この前後から俳句のホトトギス集団と俳誌「ホトトギス」に大きな動きが続く。強力な指導者の病状と死去に関わる内輪もめが発生した。その頃になると、子規が執念を燃やした旧派との勢力争いや対抗意識などは、ホトトギス派からほとんど消えて行ったと思われる。
新聞「日本」の俳句欄選者は子規から河東碧梧桐へと引き継がれていた。俳誌「ホトトギス」の主宰は高浜虚子が受け持ち、虚子、碧梧桐という双頭の対立を招くことになる。碧梧桐はこの時期から「新傾向」と呼ばれる俳句改革運動の先頭に立った。ホトトギス派は、旧派との争いどころか、自派の結束に大わらわ、という状態に陥って行く。
この頃、虚子は先輩格・夏目漱石の小説「吾輩は猫である」を俳誌「ホトトギス」への連載に踏み切り、販売部数八千部という経営上の大成功を収めた。すると虚子自身も同誌に小説を書き始めて小説家を目指し、ホトトギス誌の俳句雑詠欄を閉鎖する事態にまで進んで行く。ところが「吾輩は猫である」の連載が終ると「ホトトギス」の売れ行きは激減。虚子は再び俳句の世界に戻らざるを得なかった。「ホトトギス」誌に俳句雑詠欄を再設、本来の在り方を取り戻して行く。
虚子が俳句の世界に戻って目指したのは、俳句本来の形式の継承、つまり季語(季題)と定型などの約束事を守るという、守旧の道であった。碧梧桐らの「新傾向」を意識しての対抗措置と思われるが、俳句のような文芸にはおおよそ伝統の強みがついて回るもののようだ。虚子、碧梧桐のライバル対決は、虚子側の圧倒的な勝利に終わっていく。
子規の没後、旧派側によるホトトギス派への反撃が始まっていた。虚子の言葉によれば「ホトトギス(俳誌)にも月並風の句が並んでいるではないか」など、旧派からの指摘が嘲りとともに寄せられるようになった。子規の跡を継ぎ、一派の結束を図る虚子にとって、「月並とは何か」を探る必要が生れてきたようである。
虚子は自派内の理論武装が必要と考え、ホトトギス派内に「月並研究会」を立ち上げた。そして研究会の結果を俳誌「ホトトギス」に載せ、単行本「月並研究」(実業之日本社・大正6)を出版した。虚子はその書の中で次のように述べている。
月並といふ語は子規居士が新俳句を鼓吹するにあたって、その当時の世の中で行われていた宗匠仲間の俳句を卑しめる心地で呼んだ語であって、旧派の俳人は毎月一度ずつ(句会が)あるという意味で、旧派の俳人自身が月並と呼んでいた。それが今では一部の俳人が我らの句(ホトトギス派の句)を侮蔑の意味で呼ぶ語として用いている事実さへある。我々は自己を防衛するために月並といふ語を研究してみる必要に迫られている。
一九一六年、虚子は自派の有力俳人を集め、第一回の月並研究会を開催した。それから一年余りの間、十三回に渉って「研究会」を開く。メンバーは虚子と最長老の内藤鳴雪のほか原石鼎、長谷川零余子、山崎楽堂ら、メンバーは入れ替わり立ち代わりで十九人を数えた。各回とも二人ほどの論者を定め、それぞれの「月並論」を聞いた後に議論を交わす、というやり方を守っている。
虚子は研究会の議論をまとめた単行本「月並研究」の「序」にこう書いた。「これを月並の陣に送る第一の矢文とする」。「矢文」には月並派、即ち旧派を〝敵〟とする意識が感じられよう。しかし十三回に渉った研究会最終回の挨拶の中で虚子は「我々も月並俳句を研究し、他派からの誹りを受けないように心掛けたい」と話している。「矢文」には敵に講和を求めるニュアンスも含まれていたようである。
虚子主宰の月並研究会は月に一回、それぞれ二、三時間ほどを費やしながら毎回、「月並俳句とは何か」の論議に終始していた。そして「不出来な俳句の特性を発掘する」といった言葉のやり取りが繰り返され、結論めいたものが出てきても、合意するわけではない。次の会にまた似たような議論が繰り返されることになる。虚子の言葉の中には「旧派」とその作品への批判は感じられず、「月並」という語は一般的な俳句作品の悪い傾向という意味に用いていたようである。
論者が取り上げて検討する俳句作品は、江戸時代の句や子規の句、自派の誰かの句というところにほぼ限定されていた。つまり子規の批判した天保時代から明治中期に至る〝月並派〟の作品を取り上げることはなかった。取り上げようにも、虚子らの期待するような月並風の句が見つからなかったのではないだろうか。
月並研究会は月並句に関する子規の言葉を集め、検討を加える、というような形にならざるを得ない。そのため子規の俳句論、月並論は掘り出せても、いわゆる旧派の句そのものに議論が向くことはない。虚子らの月並研究は基本的に子規論の検討、さらに再検討に行き着かざるを得なかった。
一九一六年八月、ホトトギス派の「月並研究会」は最終回を迎えた。虚子はその冒頭で「当初の計画のほんの一部分を調べたに過ぎないが、一応の結末をつけたい」と述べ、「月並の句とは凡そこんなものと言い得る」と、説明を始めている。この虚子の弁が、現在至るまでの月並論「月並句とは何か」の基本にもなっているようなので、虚子の文をそのまま紹介する。
(月並の本質を挙げれば)口合ひ(口調)、駄洒落、穿ち、謎など、人間の低い程度の智識に訴えた類のもの。道徳的な教訓にことよせること。本当の「趣味」を知らず、風流ぶること。付け焼刃的な興味を詠じた類のもの。品の悪い人間の感情を詠むもの。際どいこと言ったり、裏を掻いて人をアッと言わせたりする類のこと。
旧派へ、と言うより、ホトトギス派の作品への注意事項と言うべきものだろう。「月並研究会」は全回に渉って、月並時代及び月並派の作品を議論の俎上に乗せることはなかった。
月並俳句についての研究は、大正から昭和そして平成、令和の時代になっても、さまざまな俳句団体の中で繰り返されてきた。俳句誌や大学の文学研究会会報などにも、月並俳句に関する論文が発表されている。しかしそれらのおおよそは、「子規の言う月並とは」がテーマになっており、上記の虚子の弁を加えて、議論するようなことが多い。つまり月並研究会は、子規の言葉をめぐり同じような議論を繰り返してきた、という印象である。
虚子は研究会の最後の弁の中で「昔から繰り返し詠まれた事件を詠む」「鶯を愛すと詠んで得意の材料とする」などの例を挙げ、月並流の特徴とした。「月並時代」の「月並句」を例示せずに語り合うのだから、議論の上滑りは避け得ない。
虚子は月並派の作品について「(優れた句を作るというより)「句会の景品を取ることを得意としている。句を作る動機は極めて卑しいものであるらしい」などと話している。虚子らの月並論も結局、子規による月並論から飛躍、転換することが出来なかった。
国立国会図書館(東京)の蔵書・論文リストを調べたところ、比較的近年に発表された「月並関係」の著書、論文類、随筆類を含めて四十七編のタイトルが現れた。現代の俳句雑誌や大学の研究論文集に載る月並論もまた少なくない。私はこの書を書くにあたって、重要と思われる十七編を選んで読んでみた。
それらの中で身近な感じがあり、最も分かり易かったのが、雑誌「俳句」(二〇一七年七月号)掲載の「シンポジウム 子規の彼方に」であった。子規生誕百五十年にちなんだ同誌の特別企画で、語り手は金子兜太、宇多喜代子、長谷川櫂氏ら、当代一流の俳人が揃っている。
司会の復本一郎氏が冒頭の挨拶で「これからお話させていただくのは未来の時間、子規から今日に至り、さらに先を見据えた討論です」と述べている。その内容は基本的に子規論に類するのだが、出席者それぞれの〝月並風俳句〟に対する見方、考え方が率直に語られており、分かり易い座談会になっている。
出席者六人へのアンケートもあった。特に興味深かったのが、アンケート三項目のうちの一つ「今日的に見て、月並俳句と思われる二句」であった。出席者はそれぞれ以下の二句を示している。ちなみに以下の六人の挙げた各二句、合計十二句の中に本当の「月並時代の句」は、残念ながら一句も入っていない。(カッコ内は句の作者)
宇多喜代子
意にかなう酒ありにけり春の雨(喜代子)
雪の朝二の字二の字の下駄のあと(捨女)
大串章
挫折てふ語を愛したる夏過ぎぬ(章)
自虐癖コスモスの影顔にゆれ(章)
金子兜太
秋といふも人間といふもうら淋し(鷹女)
柏餅古葉を出づる白さかな(水巴)
長谷川櫂
柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺(子規)
八月や六日九日十五日(作者不詳)
復本一郎
霜を置く畑に肌脱ぐ大根哉(井月)
霜白しさらばと富士を詠めりけり(紅葉)
黛まどか
平家落て源氏は莟む桜かな(伸重)
うばそくがうばひて折るや姥桜(日如)
宇多、大串両氏が「今日的に見て月並俳句と思われる句」に自身の作を選んでいることにまず注目したい。謙虚な人、という印象は当然として、あらゆる時代の誰もが月並風の句を作っていることを知らせてくれる。
以上の句の中で最も注目すべきは、長谷川櫂氏の挙げた子規の「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」ではないだろうか。大串章、黛まどか両氏は座談会中の企画「次世代に残したい子規の二句」の中の一句にこの句を選んでいる。有名な句、名句・秀句とされる作品への評価を考える上で、なかなか興味深い答えと言えるだろう。櫂氏はこう話している。
月並とは要するに、子規自身もよく分かっておらず、直感的に言っていることだと思うのです。自分が気に入らない、感覚的にまずいと思うのを「月並」と言っているだけで、いろいろ書き方を変えているのは、子規自身もそれが一体何だろうと思っていたから、次から次へと違う表現が出てきている。
子規の「俳諧大要」中の〝一行〟から発した月並俳句についての問題は、以上の言葉によってほぼ言い尽くされた、と私は思っている。
そしてもう一句、同氏の挙げた「八月や六日九日十五日」(作者不詳)も俳句愛好者の句作りに大きな示唆を与えそうだ。櫂氏は次のように語っている。
毎年、八月になると五、六通、必ず来る種類の句です。この句を最初に作ったのが大分の方だと調べて、本にされた方がいるほどです。最初に作った人が作者としてその栄誉を担うという句ではなく、だれでも作れる句で、これも大いなる月並の典型だろうと思います。
「月並」と形容される俳句作品はすでに本来の意味を失い、「時代を問わず、一般的に存在する不出来の句」となっている。
黛まどか氏の挙げた江戸初期の俳人の二句にも説明の要がありそうだ。
「平家落て源氏は莟む桜哉」は「平家桜」が散り、「源氏桜」は莟になった、と解すると、源平の盛衰絡みが浮かび上がってきて「これは上手い」という感想に繋がるかも知れない。しかし読者に「分かるかな」と問い掛けるような「謎かけ」が指摘されれば、一転して「月並」の評価に変わってしまうだろう。
「うばそくがうばひて折るや姥桜」は、優婆塞という仏教信者(男性)を詠んでいるのだが、「うば」の頭韻を踏んでいると分かれば、人によっては「上手い」と褒めるかも知れない。しかし別の人からは「月並だ」と指摘されてしまうに違いない。なおこの二句は芭蕉が登場する以前の作で、後に芭蕉らによって否定されたのが、これらのタイプの句であったのだろう。
この座談会は月並俳句議論・研究などの総括という意味合いがあったようだが、天保時代以降、明治時代までの〝月並集団〟とその作品群についての批判、あるいは弁護といった言葉は一切なかった。現代の俳人から見た「好ましい俳句作品」と「批判すべき俳句作品」の議論に終始していたとも言えるだろう。
俳句誌や大学の文学研究会誌などを探すと、月並俳句関係の論文や随筆にも結構よく出会うが、どれにも似たような流れが感じられた。月並論と銘打っても、結局は子規の言葉(文章)をスタートにした「子規の月並論」になっているのだ。旧派・月並派側の作品を論じたものは極めて少ない、というより、ゼロと言っていいだろう。
それらの中で一つ、「これは」と注目した評論があった。俳句誌「俳壇」(一九九七年一月)にある筑紫磐井氏の「月並を考える──天保俳諧と現代俳句」である。冒頭に「〈月並〉は、子規の発見した最も独創的かつ重要な文學用語であり、その意味では〈写生〉以上と言えるかも知れない」と書く。
続いて子規の「月並論」に移り、虚子らによる前記の「月並研究」に及んで行く。そして月並研究会は、大正四年から俳誌「ホトトギス」に連載された「進むべき俳句の道」と併行連載されていたことを明らかにする。さらに昭和初年の〝俳句ブーム〟の中で出版された「続俳句講座第三巻〈特殊研究篇〉」(昭和九年・改造社)にある月並に関する評論などについて述べていく。
その中の「続俳句講座第三巻」にある四つの論文集の中の一つ、其角堂永湖の「月並の沿革」についての筑紫氏の感想に私は注目した。他の論文や随筆などでは出会うことのない〝月並派に寄り添う心〟が感じられたからだ。長めの文章なので、いくらか省略し、引用させて頂く。
(永湖は)淡々と月並の特徴を述べる。現在の募集俳句(新聞、雑誌などへの投稿句)が月並俳句から換骨奪胎され、現代化されて、あたかも今様の姿でありながら古い月並と変わるところがないこと、月並の特徴は真剣みの乏しさと季題(季語)に対して約束的な事物が詠まれやすいこと、しかし月並俳句にも長所がなくては飽きられてしまうはずで、その特徴は通俗的で分かり易いことにあり、この意味で大衆にもて囃され永久に月並調は続いて行くこと等々。彼の所説は決して月並でも不真面目でもなく、新派旧派の枠を超えた奥深いものがあった。
田辺永湖は、宝井其角の流れを汲む其角堂の九世である。父の其角堂八世・田辺機一(穂積永機の弟子)に俳句を学んでいた。一八八四年(明治27)に生れ、一九四五年(昭和20)没。第二次世界大戦敗戦の年まで生きた人であった。「近代俳句のあけぼの」に永湖の名がないのは、著者・市川一男氏が栄湖を「現代の俳人」と見なしたからかも知れない。
東京都江東区清澄にある都立清澄庭園内の池畔に「古池の碑」という大きな横長の石碑があり、芭蕉の句「古池や~」が刻まれている。もともとは永湖によって一九三四年(昭和9)、深川芭蕉庵跡に建てられたが、敷地が狭いため後に清澄庭園に移されている。永湖ら旧派俳人の抱く芭蕉への尊敬の念が込められているのだろう。
上記「俳句」誌の月並座談会、そしてこの筑紫氏の論文は相当に気合の入った企画であった。月並論総決算と言うべき内容もあり、月並時代への偏見もない。とは言え、この二つの文中でも月並と呼ばれた時代の句自体は取り上げられていない。
「月並」という俳句語はすでに「平凡なこと、陳腐なこと」(広辞苑)という一般用語になっているのだ。一方、俳句史の三分の一、百年余りに及ぶ時代の汚名は残ったままで、その時代を彩った作品群は、世に知られぬまま消え去ろうとしている。これでいいのだろうか。
以上の状況を、現代の俳句に照らしてみたい。即ち「俳句ブーム」とされる今日、テレビでの「芸能化」も含めて、俳句の世界をどう見たらいいのだろうか。具体的に言えば、現在もし、子規のような剛腕の論者が俳句界に登場したらどうなるか、と私は考えてしまうのだ。