月並時代「千人千句集」への道筋
──俳句史百余年の誤解を解く──


4. 超大物・安藤和風

俳句史の宝庫

再び「近代俳句のあけぼの」(市川一男著)に戻る。前述のようにこの書は第一部「幕末明治俳壇史」と第二部「幕末明治の俳人とその作品」に分かれており、空前と言うべき筆者の努力と取材力がその中に注ぎこまれている。特に月並期の俳人一人一人について調べ上げた第二部には、魅力ある鉱脈がどっさりと潜んでいた。

その第二部に並ぶ俳人紹介の中から月並期第一の傑物を紹介したい。アイウエオ順、五百八十人余り、同書の最後、「ワ」の頁にただ一人置かれた安藤和風である。その経歴欄から拾うと「出身地は秋田」「俳句は古人に学び」そして「秋田さきがけ新聞記者。のちに社長」とある。

秋田魁新報は明治時代から今日に至るまで、記事の質の高さを評価されてきた新聞である。その新聞社社長とは大したものだが、それ以上に驚かされたのは、頁の最後に並ぶ和風の俳句作品であった。それまでに見たことのないタイプの句がかなりあり、最初に読んだときは「何だい、これは」と呟いたことを覚えている。掲載十七句中からまず、通常の俳句感覚からすれば、風変りと思われる五句を紹介する。

  • 元日を地球が廻る元日も
  • 春うごく見よ風車水車
  • 人間の皮着て今日の暑さかな
  • 青い鳥紅い鳥怪しい鳥も渡る   ※季語は「渡り鳥」か。「怪しい鳥」とは何だろう。
  • 虫聞くと話聞く別々の耳

和風の句がこのようなタイプばかりではないことを示すために、以下の五句を掲載する。

  • 春の風碁盤目割の新市街
  • 菜の花の都市計画に残りけり
  • 雲の峰山なき国に聳えけり
  • 心太ところてんあれば足るなり一徳利
  • 桐の花仰げば雲の匂ひけり

一、二句目は、秋田の都市計画を詠んだものか。東京、その他の地のようでもあるが、いずれにせよ「都市計画」を詠んだ最初の俳句作品かも知れない。四句目、酒好き、心太好きだった作者の笑顔が見えてくる。

ジャーナリストの超人

安藤和風がジャーナリストとして最も油の乗り切っていたのは、政治、経済、社会を担当する記者の頃であったようだ。現代で言えば論説委員、編集委員といった立場にいたと思われるが、俳句への関心は常に、非常に高かった。現在では「子規の時代」と呼ばれる頃の俳句の世界を、自身の眼でしっかり捉えていたことは確かである。

秋田魁新報は明治初期創立の秋田を代表する新聞社である。河北新報(本社・仙台)と並ぶ東北地方のクオリティペーパーとして知られてきた。和風はその社長なのだから、東北地方では影響力のある著名人と言えるだろう。さらに俳句関係の業績を調べていくと、想像をはるかに超えるスーパーマンであることが明らかになって行く。

まず氏の姓名と俳号のこと。「近代俳句~」の記述に従い、ここでは本名を「安藤信順」、俳号の読みは「和風わふう」としておくが、そうではない可能性もある。本名が「和風」で、その読みは「はるかぜ」だったかも知れない。

和風は一八六六年(慶應二年)一月、維新で没落した士族の子として秋田市に生れた。その一年後に夏目漱石が、さらに一年後には正岡子規が誕生している。十三歳の時に県立の中学師範予備科に入学したが、家の経済事情により、半年ほどで退学する。当時の日本社会に広がった自由民権運動に関心を示し、やがて活動家になり、二度の入獄も体験した。

一八八二年、秋田日日新聞に入社するが、四か月後に改進党系の秋田日報社(後の秋田さきがけ新報社)に転じた。後の首相・犬養毅が秋田日報社の主筆を務めていたこともあり、自分の思想に合致する社風を選んだのだろう。和風はこの後、篤志家の援助を受けて東京へ遊学。秋田に戻って県庁や市役所などに勤務後、三十四歳の時に秋田魁新報社に復帰した。以後、同新聞社で健筆を振るって昇進を続け、やがて社長に就任する。

ジャーナリストとしての和風は実に多彩であった。硬派(政治、経済など)、軟派(社会、文化、スポーツなど)の垣根を軽々と越え、洋の東西どころか時空も超え、あらゆる分野に分け入りながら、秋田という地域にも深く目を配っていた。古今東西、万巻の書を読破したというが、その内容を全て自分の脳に納め、それらを自在に取り出すような能力を持っていたのではないだろうか。

新聞記者としての和風の本業は、政治、社会の記事や論評を書くことにあった。しかし彼の興味はそれら以上に俳句の世界に向っていたようだ。句作数三千は驚くほどでもないが、俳句という文芸を深く探求し、俳句作りや俳句鑑賞に心を遊ばせることに関しては「万人も及ばず」と私は言い切ることが出来る。

国立国会図書館(東京)の蔵書リストから、和風の俳句に関する著書・編書名だけを拾ってみた。

「俳諧初しぐれ」(和風編)、「俳諧うもれ木」(著)、「俳諧研究」(著)、「俳諧新研究」(著)「俳諧落穂抄」(著)「古人秋田俳名録」(編)「俳筆手鑑」(編)「俳諧反故抄」(編)、「古今俳家逸話」(著)、「類題大成五明集」(編)、「和風句集」(編著)、「句学」(著)、「閨秀俳選」(編)、「俳諧奇書珍書」(編)、「古今俳家逸話 正・続」(著)、「恋愛俳句集」(編)などなど……。

「類題大成五明集」は、江戸中期に活躍した秋田在住の俳人・吉川五明きっかわごめいの句を掘り起こしたものだろう。「俳諧研究」、「俳諧新研究」には子規らの俳論の本質に迫る彼の考察や見解が記されていた。

俳句は文学の一部なり

私は和風の著作の中からまず、「俳諧研究」、「俳諧新研究」と「古今俳家逸話」の三書に目を付けた。特に初めの二書には月並時代の新派・旧派に関する状況や彼の見解が載っているかも知れないと感じた。三書読了の収穫は大きかった。私が全く知らなかった「月並時代」に関する事実をいくつも知ることが出来た。それらから重要度の高そうなものを紹介し、必要と思う個所には私のコメントを加えていくことにした。

まず「古今俳家逸話」から。出版の一九〇一年は子規没後一年のこと。書名からして古い話が多そうである。月並時代や子規の時代に関わるエピソードなども得られるかも知れない、と期待していた。

国会図書館のパソコン画面で見た「古今俳家逸話」は厚みのある小型の本のようで、一頁ごとの文字数は少ない。最初に登場した項目(人物)は何と「後水尾ごみずのお帝」であった。江戸時代初期の天皇で、この人の和歌が俳句に与えた影響などを述べている。

この書には松尾芭蕉、上島鬼貫うえじまおにつら、宝井其角など、百五十人ほどの俳人に絡む逸話が、それぞれ半頁から一頁ほどにまとめられていた。登場人物はおおよそ時代順に並んでいるようなので、思い切って最終頁近くを開いてみると、「伊予すだれ」という項目があった。「伊予」とあるからには子規に関することが書かれていそうだ、という期待はぴたりと的中した。

   ※以下に紹介する引用文には筆者の判断によって句読点やルビを適当に付けている。

子規は正岡常規、伊予の人。近世の俳風、ようやく汚下して卑俗に陥るを嘆き、自ら一派を開き、世にこれを新派と称す。蕪村を祖述し、猿蓑を説き、今は天明調をとなふ」

と書いている。

さらに「その俳論、俳風はことごとく服することあたわずといえども、俳諧をして文学の地位を保たしめ、文人をして一顧せしむるに至りたるは彼が功なるべし」と続く。

和風は、子規の俳句に関する見解や彼の俳風には「必ずしも賛成しない面もあるが……」と断った上で、「俳句も文学」と唱えた子規の主張を評価した。このコメントは、子規の俳句論を最も早く、正しく紹介したものではないだろうか。

子規は一八九五年(明治28)十月、新聞「日本」に「俳諧大要」の連載を始めた。その第一章「俳句の標準」を子規はこう書き出している。

「俳句は文学の一部なり。文学は美術(芸術を指すのだろう)の一部なり。故に美の標準は文学の標準なり。文学の標準は俳句の標準なり。即ち絵画も彫刻も音楽も詩歌小説も、皆同一の標準を以て評論しべし」

たった十七音の俳句を「文学」という語で表すのはどうか、という問題が当時からあったようだ。しかし子規は「文学」という訳語の持つ魅力に目を付けたようで、「俳句は文学である」と論じている。

和風の「俳家逸話」の発刊は一九〇二年(明治35)五月。子規存命中のことであった。和風は同著の中で「才華の如何は知らず」(才能があるかどうかは不明だが)としながら、「その名を俳句史に残すべき」と書き残した。ジャーナリストの勘によるものだろうが、当時の子規をこのように言い切った人が和風の他にいたとは思えない。

蕪村ブームに〝喝〟

和風の書「古今俳諧史話」に続いて「俳諧研究」を読んだ。この書も子規の存命中、一九〇八年(死の一年前)の出版である。秋田に住む和風は子規が死に瀕しているとは知らず、元気で強気の人と考えていたようだ。新聞「日本」に掲載された子規の記事をしっかりと読み込んでいたようで、自身の俳論を鋭く展開していく。

和風に備わった強力な武器の一つは外国文学、とくに英国文学に関する豊富な知識にあった。まず、子規ら日本派の芭蕉と蕪村への向き合い方についての異論を述べる。その二項目の見出しは「ヲーズヲースと芭蕉」、「テニズンと蕪村」であった。現代の表記なら、二人の英国詩人は「ワーズワース」「テニソン」になるのだが、和風の表記の方が明らかに原語の発音に近い。

この二人(後の記述では「ワ氏」「テ氏」となる)のほか、バイロン、カルヴァ―ド、ロンスデール伯、スチュワード・ミルなどの名が出てくる。これらの詩人と芭蕉、蕪村との比較のための英語の詩の引用などがあり、例えば蕪村の「涼しさや鐘を離るる鐘の声」に対しては、「テ氏」が新年を詠んだ「Ring out the old, in the new ──」という詩を紹介しながら説明していくのだ。月並時代、子規の時代の、旧派に属する俳人の中にこれほどの人がいたのか、と驚かざるを得ない。

「芭蕉と蕪村」という項で、和風は次のように書き出す。

日本派俳人は、蕪村に心酔するのあまり、芭蕉を軽視し、甚だしきは芭蕉を以て蕪村に及ばずと妄断している。之に反し、芭蕉を崇拝するものは、多くは旧派に属するを以て、多少文学の素養ある人士もまた日本派の諸説に付和雷同して居る。

こうした論旨の中から、旧派を貶め、自らの時代を築こうとする子規派の思惑が見えてくる。当時の「旧派」はおおよそ芭蕉の弟子によって引き継がれてきた団体であった。子規が最大の「敵」と見做みなした「其角堂」と「雪中庵」は芭蕉の一番弟子・宝井其角と二番弟子・服部嵐雪の創立、ともに明治時代以降も代表的な俳句集団として存在していた。

芭蕉を祖とする旧派集団は、子規らにとって目の上のコブであり、打倒しなければならない相手だったのだろう。子規の蕪村称揚はこの流れの中に生まれたもの、と和風は見ており、彼の子規批判は、子規の「芭蕉批判論」、「蕪村称揚論」への反論でもあった。


「芭蕉と蕪村」に関する和風の論旨を、現代風の日本語で以下に要約しておく。

「蕪村を持ち上げ、芭蕉を継子のように扱う」という日本派の行き方は「旧派俳人を排斥するために起こったこと」と和風は言い切っている。「子規登場」の時代を以上のように評した人物は明治から令和の現代までに広げても、和風をおいて他にいないだろう。

〝子規後〟の状況を嘆く

和風著「俳諧新研究」は以上に紹介した「俳諧研究」の四年後に出版された。和風はその最初の項「新しき試み」の中で、「一人のリーダーが失われたとたん、それまでに出来上がっていた俳句の理念が崩れていくこと」へ警告を発している。そのリーダーとは、もちろん子規のことで、彼の死後にたちまち変わっていく新派の状況を「魔道に陥らんとしつつある」と指摘している。

その魔道の根源は「新傾向」と呼ばれる河東碧梧桐らの俳句にある、と和風は指摘する。後の時代の人が過去の時代について述べているのではない。和風は子規の死後、今まさに勃興してきた新勢力に対し、非常に厳しい筆調で指弾しているのだ。彼の著書「俳諧新研究」中の「新しき試み」の冒頭部を紹介する。

(文芸は常に変化を欲する傾向があり)芭蕉の滅後に、其角が江戸座を起し、子規の死後に碧梧桐が新傾向を唱えさせしもこれが為である。(略)碧梧桐が子規の旧風を株守しゅしゅせず、変化を求めんとするの苦心は実に惨憺たるものにして(略)、凝っては思案にあたはず、所謂いわゆる新傾向と称するものはツギハギの印象句、又は内容のない象徴句に過ぎない。

和風はさらに、子規没後の日本派(ホトトギス派)の俳句に対して、以下のような苦言を呈している。

子規の提唱せし新派の俳諧といえども、趣味一方にへきし(偏り)、即ち古典的、又は浪漫的にして、近世文芸と風馬牛ふうばぎゅう(関わりを持たないこと)の感あることは、既に議論のあるところである。いわんや其の所謂いわゆるる趣味(趣き、味わい)さへ失わんとするに於いてをや。

「俳句も文学」という子規の主張が彼の死後、早くも崩れてきたことへ警告である。新派の本拠内では、子規の理念が彼の死とともに早くも崩れかけている、と和風は警告しているのだ。彼がもしその頃、東京にいたら俳句の世界はどうなっていただろうか。ホトトギス派とは別の俳句の世界が誕生していたに違いない。

英吉利語訳の俳句

和風は俳句を広く研究するという面で、明らかに子規よりも優れた先覚者だった。その一端を伝える意味で「俳諧新研究」の最後に置かれた「英吉利イギリス言葉に譯された発句」という一項を紹介しておきたい。

和風がこの項を書いたのは一九一二年(大正元年)。欧米への俳句の紹介がようやく数を増してきた頃であった。ここに紹介する英訳の俳句集は、「百人一首」の英訳で有名になったダブリー・エヌ・ポーターの訳によるもの、と和風は書いている。出版所はオクスフォード大学出版部である。

「四季発句集」(英語名は不明)は一月(冬の終わり)に始まり、十二月(冬の半ば)に終るように句が配列されている。ポーター氏はまず二千五百句を訳し、「四季発句集」に載せるのは「一日一句」を想定、三百六十五句を選んだ、と和風は紹介する。

当時、英国で訳された俳句には、句の前に季語の「題」(見出し)を置く例が多かったが、「四季発句集」の場合は従来の直接的な題に変え、「句に宿れる〝心〟」を題名とした、という。例えば以前、「蛙」であった題が「四季発句集」では「静かさ」に、「蜻蛉とんぼ」であったのが「死んだ児」に変わったという。この二例が芭蕉と千代女の句であることは説明するまでもないだろう。

日本の俳句を世界中で最も早く英訳したと思われるこの書は、一句について複数の訳が行われており、和風はその中から「ごく一部しか紹介出来ない」と断りながら、何種類もの訳を挙げている。これらの訳は「決して直訳でなく、十分に意味を噛みこなし(略)ことに韻を踏んで英吉利(英国)の詩に生れ代らせた」という。

英訳された句は主として江戸時代の作だったが、和風は「明治の人の句もある」として、子規らの以下の五句を挙げている。(※英語訳は省略)

  • 競らべ馬後れし一騎哀れなり     正岡 子規
  • 廊下より見下ろす石の躑躅つつじ哉     高浜 虚子
  • 御禊ぎして浅き流れや水光る     河東碧梧桐
  • 河うへ(かみ)に鶯啼きて夏近し   内藤 鳴雪
  • 紅梅や夜は薄雪に明け放れ      穂積 永機

以上の句は英国人が選んで訳した三百六十五句の中から、和風が「当代を代表する俳人」 の作として五句を選んだと思われる。日本語から英語へ訳され、元の日本語に戻すうちに生じたミスがあった。鳴雪の句「河うへに」は「川上に」が正しいようだ。また虚子の句の原句は発見できなかった。

五句並んだうちの作者、子規、虚子、碧梧桐、鳴雪は新派を代表する四人と言っていい。最後の一人は旧派の巨匠・穂積永機であった。英語訳された当時の俳人の作はもっと多かったはずだが、和風はこの五人の句を選んだ。一人(一句)は旧派から、という思いがあったのかも知れない。

永機の「紅梅や」の句は既に紹介済みだが、ここに並ぶ子規ら新派の四句よりも明らかに優れている、と私は思う。新派の作の中では鳴雪の句は季節感をよく表しているが、他の三句はいくつかの点で劣るとしか言いようがない。

和風は英訳された多くの俳句の中から、なぜ以上の五句を選んだのだろうか。筆者・和風の新派、旧派に対する思いが潜んでいるに違いない。永機の一句によって旧派はともかく面目を保つことが出来た、と私は思っている。

「自由」を守った生涯

和風の没年は一九三六年(昭和十一年)十二月であった。享年は七十。現代なら「まだこれから」の年齢だが、「人生五十年」と言われていた頃のこと。本人は「これほど長生きできるとは」と語っている。自身を「病弱だった」とも記しており、いくつかの病気に悩まされ続けていたようだ。

和風に自伝風の著書はない。彼の経歴や新聞人としての功績を知るには、出身校・秋田高校のホームページにある「安藤和風『自由の群像碑に記名された新聞人』」が適当と思われる。その記事に従って和風の経歴を簡単にたどってみた。

安藤和風は一八八六年(慶應二年)一月十二日、没落士族(元・武家)の貧乏な家に生まれた。幼名は国之助、十八歳の時に元服後の名・和風(読みは「はるかぜ」)を名乗った。「わふう」の読みは通称ないし俳号だという。

小学校を出て県立の中学師範学校に入学するが、半年で退学する。十五歳の時に自由民権運動に参加、一八八三年(明治13)に秋田日日新聞に入社するが、半年にして、秋田さきがけ新報社の前身・秋田日報社に転じて、二度の入獄を体験した。

その後、秋田市役所や銀行勤務を経て三十四歳の時、秋田魁に復帰。翌年には主筆に抜擢されて、政治、経済、社会、文化の各部分野に筆を振るった。

一九二八年(昭和3年)、秋田魁新報社社長に就任。あたかも新聞社への軍部の圧力が強まる中、敢然として自由主義の論調を守った。それらの功績により、新聞人最高の栄誉とされる「自由の群像記念碑」(東京・千鳥ヶ淵公園)にその名が刻まれている。