月並時代「千人千句集」への道筋
──俳句史百余年の誤解を解く──


1. 一茶時代以降の空白

俳句史の中で「月並」と呼ばれる時代がある。年代的には江戸後期の天保期から正岡子規の時代となる明治の中期あたりまで。西暦で言えば一八三〇年から一九一〇年辺りの八〇年間ほどになるだろう。しかし文学史の区切りなどは当然、ぼんやりとしたもので、「月並派」「月並流」などと呼ばれる俳句の時代は、その前後も合せて大雑把に「百年余り」と私は考えている。

その年代の俳句について、ある百科事典は次のように書いている。

天保期(一八三〇年~四五年)に入ると、俳諧(※)の作者層はますます下降し、俳風は救いがたいほどの低調に陥った。(略)その後、志倉西馬、穂積永機、三森幹雄など著名な宗匠が現れたが、低俗な季題趣味と小理屈に終始し、明治時代に至って正岡子規から「天保以後の句は概ね卑俗陳腐にして見るに堪へず、称して月並調といふ」(「俳諧大要」)と一蹴された。

この百科事典だけではない。文学史、俳句史などは月並時代の俳句作品について「卑俗、陳腐、低俗、駄洒落、小理屈」などの語を並べ、ほとんど同じように厳しく、そして短く「低劣な時代だった」と極めつけている。どの書もほとんど同じなのだから、読者は「その通りなのだろう」と思わざるを得ない。

上記のような記述に私(今泉)が初めて出会ったのは、二〇〇一年(平成13)の初夏の頃であった。日本経済新聞社を退職後、流通経済大学で「文章表現論」「現代文章論」などを担当したばかりの頃である。

そんなある日、教務課から「先生(私)の研究テーマは?」と聞かれた。研究費支給の書類を作るためとのこと。さほど深く考えずに「俳句における文章表現」と答えた。この大学で「文章論」を担当しており、また少年時代から俳句に馴染んでいたこともあって、いつか俳句表現の特殊性について調べてみたい、と考えていたのだ。

言うまでもないが、たったの十七音で成り立つ俳句は、国内に限らず海外でも「世界最短の詩」とされている。それほどに少ない字数で自然、季節、人生など森羅万象を描くのだから、表現手法は複雑にして簡明、そして独特である。私はその研究材料集めのための「名句集(例句集)」作りから始めることにした。

ほどなく教員一年目の夏休みになる頃である。「さて研究だ」と、歳時記の類、松尾芭蕉や与謝蕪村など著名俳人の個人句集、名句辞典、近世俳句集などから手当たり次第、名句や自分好みの句を拾い集めて始めた。材料になりそうな俳句作品をワープロに打ち込み、季語順、時代順、作者別に並べるだけのことである。ある程度、集まってから、俳句独特の構造や表現を分析し、整理、整頓して行く……。そんな心積もりだった。

さて名句集めの成果は……。山崎宗鑑、荒木田守武ら室町時代の連歌師の発句から集め始め、芭蕉の時代、加賀千代女や与謝蕪村らの時代へと進む。そして江戸後期の小林一茶の頃に至るまではまことに順調で、我がことながらうまく行っていると感じていた。

ところが江戸後期、一茶の時代を終えた辺りでどういうわけか、次の時代の句が見つからないのだ。実はこのあたりから「月並」と呼ばれる時代に入るのだが、当時はそんなことに気づくはずもなく、神田の書店・古書店巡り、国会図書館(東京)通いなど、それまで通りの探査を続けてみたが、収穫は全くのゼロと言える有様である。

つまり一茶以後の時代の句を探しても全く出会えず、さらに先の年代を探すと幕末、明治初期を超えて子規の時代に入ってしまうのだ。一茶の生年は一七六三年、子規は一八六七年の生れである。二人の俳人は百年余りを隔てて誕生しており、俳人としての活動期も百年ほどの差があると見ていいだろう。

この一茶の時代と子規の時代を隔てる期間こそがいわゆる「月並時代」なのだが、それに該当する歳月を自作の俳句史年表の中に置いてみて、その長さを実感した。連句の時代を除けば俳句史は、芭蕉に始まって現代に至るまでの三百数十年になる。そしてその中間に横たわる「月並時代」の歳月は百年余り。つまり月並とされる空白は、俳句史三百余年の三分の一にも該当してしまうのだ。


※「俳句」「俳諧」という二語の使用実態は今なお複雑にして曖昧である。辞書によれば「俳諧」は「俳諧の連歌の略」と説明され、「俳句」は「連句の発句が独立したもの」などとされている。但しこれは比較的新しい見解であり、子規の著書「俳諧大要」などでは「俳諧」を「俳句」そのものの意味に用いており、この後に紹介する「近代俳句のあけぼの」の著者・市川一男氏らも同様である。現代に至っても「俳諧」という語を「俳句と同義」に捉える人が少なくない。

子規の「俳諧大要」とは

正岡子規は「俳諧大要」の中で月並期の俳句作品を「卑俗・陳腐」と記した。この短い語が俳句史の三分の一を、言わば葬り去った、と言えるだろう。私は若い頃、「俳諧大要」をざっと読んでいたのだが、月並期の俳句批判の書という認識は全く残っていない。改めて読み直し、思い出した。「俳諧大要」は「俳句史」ではなく「俳句作りの指導書」であった。

「俳諧大要」は、子規が花山(俳号)という盲目の弟子(実在の人物だという)に俳句を教える、という形式を取っている。さまざまな例句を挙げながら「俳句上達の心得」を述べ、芭蕉を初め江戸時代の俳人の句を題材に、鑑賞の仕方、句の作り方なども懇切に説明している。つまりこの書は子規が自分の美学観、文学観、俳句観を述べたもので、俳句の指導理論から大きく外れるところはない。

ところがそのような記述の中に突然、「天保以後の句は卑俗陳腐にして~」という問題の一行が現れる。蕪村の弟子・高井几董きとうの句「生きて世にひとの年忌や初茄子なすび」について語る途中、「ふと思いついた」という形で飛び出してくるのだ。子規の頭の中に突然、天保時代以後の俳句のことが浮かび、筆が滑ってしまった、という感じである。

「初茄子」の句の作者・几董は蕪村の弟子で、天保時代の百年ほど前に活躍した俳人であった。その几董の句と天保時代以降の俳風「卑俗・陳腐」がどのような関係を持つのか。当該個所の周辺を探してみても、全く説明されていない。ところが、その一行にも満たぬ文がやがて、俳句史一時代の評価を決定づけてしまうことになる。

「俳諧大要」中の〝ひと言〟を再掲する。

天保以後の句は概ね卑俗陳腐にして見るに堪えず、称して月並調といふ。

繰り返すが、たったこれだけなのだ。そして子規の文は以下のように続いていく。

しかれどもこの種の句も多少はこれを見るを要す。例えば俳諧の堂に入りたる人往々にして月並調の句を賞し、あるいは自らものすることあり。

俳句の上級者でも〝月並調〟の句を褒めたり、自分で作ったりすることがある、と子規は言う。そんな風にならないように、と読者に注意をうながしているのだろう。つまり〝問題の一行〟を除けば、すべて俳句史とは関係のない「俳句の作り方」を述べているのだ。子規にしても、その中のたった一行を以て「百年余の俳句史を述べた」というような意識は全くなかったと思われる。

ところが後の時代、おそらく昭和時代に入って以降のこと、と私は推測する。俳句史の執筆者の誰かが、明治維新前後の俳句を述べようとする際、子規の述べた「卑俗陳腐」の一行を見つけ、「これだ」とばかりに飛びついた。そしてその後の俳句史家たちが次々にこれに倣い、俳句史上「最悪の時代」という評価を下してしまったらしい。

後に私はこの時代の俳句作品を少しずつ知ることになるが、それらの作品はおおよそまっとうで、卑俗、陳腐などという語に該当する句には「全く」と言い切れるほど出会っていない。一方、名句と呼ぶにふさわしい作品も数多く存在していた。この頃、つまり今日で言う「月並時代」は、国民各階層から、たくさんの名句、好句が生まれていた時代でもあったと思われる。

この「月並時代」、つまり天保時代から明治中期の子規の時代が始まる辺りまでを改めて考え直してみたい。江戸時代の後期に長らく盛況を保っていた「旧派」と呼ばれる集団の多くが、明治の初期に子規が登場しただけで突然、俳句史の中から消滅してしまったように記されている。

しかし俳句界の実態は大違いだった。維新以前で言えば、俳句を楽しむ人々の広がりは殿様から一般庶民まで、維新以後では大臣を含む政治家や実業家から一般社会人、農業・商業の人々まで、広範囲に広がっていた。そして私が知り得たこの時代の俳句作品は、「卑俗・陳腐」とは完全に相反する好もしい雰囲気を備えていたのであった。

ところが俳句史は、この時代に対して下した評価の誤りを、何時になっても正そうとしない。つまり昭和を過ぎ平成、令和の現代に至っても俳句史は、月並期の俳句作品や俳人たちに巨大な濡れ衣を被せたままなのである。


このように誤解、誹謗され続けてきた俳句の一時代に心を寄せる人もいないわけではない。例えば「一月の川一月の谷の中」などの句で知られる俳人・飯田龍太(故人)に「月並礼賛」と題する文がある。

龍太はその文の中でまず、月並俳句を批判した子規に対し「たいへん気前よく歴史を切って捨てた」と書く。続いて子規の後輩にあたる優れた俳人たち、村上鬼城、久保田万太郎、川端茅舎ぼうしゃの名を挙げ「明らかに子規以前の俳風(つまり月並時代の俳風)を継ぐもの」とする。そして月並の俳句や俳人について思いを巡らし、次のように述べている。

  • 大体、月並俳諧をたのしむ人のなかには、現代俳人とちがって、心底それが好きであったひとが多かったように思われる。格別芸などと考え、術と意識することなく、ただただ表現の妙をたのしむことに専心したのではないか。そこに徹し、更には独自の個性と創造に恵まれたとき、おのずから独特の風韻が生れた。明治以前、俳諧史の中で、空白とされる永い年月のなかにそうした何人かがあったのではないか。
  • 文学などという言葉からはおよそ縁遠い俳諧師のなかに、作品としてなかなか面白いものを遺した人達があったように思われる。いわば縄文土器が新鮮に見え、無名の職人の手になった古備前が現代著名の陶芸家の作品よりはるかに高い風韻と迫力を感じされるように。  〈飯田龍太著「思い浮かぶこと」(中央公論社・一九七八年刊)〉

「卑俗、陳腐」と長らく誤解され続けてきた俳句作品とその作者たちに暖かい理解を寄せた文章、と言っていいだろう。この文に出会った時、私は「その通りです」と何度も頷いたが、失望も感じていた。以上の龍太の言葉は全て推測によるもので、「先生ほどの人でも、月並俳句の実態を全く御存じなかった」との思いを深めたものである。

文界やつあたり

子規による月並派への批判は実にたくさんあるのだが、俳句作品そのものに向けた言葉はごく少ない、と言える。彼が特に厳しく批判していたのは、宗匠たちの金儲け主義と選句眼の拙さであった。例えば「文界八つあたり」という新聞連載では、まさに手当たり次第、言いたい放題に、宗匠らへ批判の声を浴びせている。

試みに幾百の宗匠は、如何なる生計を為すかと問へば(略)、その点料(句の評点への料金)、その入花いればな(会報への句の掲載料)等によらざるはなし。

この主張に対する月並派の一人の反応(原文ではない)を、私はかつて俳句雑誌で読んだことがある。何十年も前のことだが、記憶によればその俳人は、こんな風に反論していた。「彼(子規)は新聞に俳句のことを書いて収入を得ているではないか。我々が弟子に俳句を教えて指導料を取るのと、同じようなものだ」

その抗議文はおそらく、自らが主宰する会の会報に載せたのだろう。書いた御本人はうっ憤を晴らし、弟子たちは「そうだ、そうだ」と同調したに違いない。しかし子規がその文を読んだとは思えず、多くの人々の目には入らなかったのではないだろうか。

子規は宗匠たちをこんな風にも批判している、

その宗匠が批評するところを見れば、多くは正鵠せいこくを誤り、雅淡味わふべきの句は一切捨てて顧みず、かえつて俗臭紛々、鼻穴より入りて脳天を貫く的の悪句をとらえ来たりて、之を巻頭(最も優れた作)と為し……

これらの文章は相当に荒っぽく、同時代の俳人たちの作品を批判、誹謗したのだから、現代に置き換えれば、新聞などのマスコミでは到底許されないような攻撃的な文面である。ところがこの子規の言い分、つまり言いたい放題の批判が、正義の声として人々に受け容れられて行ったようである。

これらの子規の月並批判文の大きな欠陥があった。彼だけではなく、後の時代の俳句史家も同様なのだが、月並時代の俳句がいかに下劣で低レベルにあるかについての実例を一句すら提示していないのだ。子規や後の時代の俳句史筆者たちは、月並時代の作品の実態を知らなかったのだ、と私は思っている。

子規の率いる「ホトトギス派※」は子規没後の明治時代後期に高浜虚子、河東碧梧桐へきごどうが頭角を現し、大正から昭和の時代になると飯田蛇笏だこつ、原石鼎せきてい、水原秋櫻子しゅうおうしらの俊英・新鋭が続々と加わって、俳句の世界はホトトギス派の天下となる。こうした情勢の中で「新派※は善」、「旧派※は悪」という誤った認識が広まって行ったのだろう。

※明治期に生れた新たな俳句集団への「新派」という呼び名は当初、作家・尾崎紅葉の主宰する紫吟社むらさきぎんしゃなどを指していた。しかしその後に正岡子規の日本派(子規の所属する日本新聞社による名称)が登場。「新派」は子規グループ「日本派」(子規の勤務する日本新聞による)をも指すようになり、やがては日本派(ホトトギス派)の別称となる。一方、江戸時代以来の伝統的俳句集団に与えられた「旧派」の呼び名は、「新派」の名が生れてから一定の期間を置いて誕生し、次第に一般化していったと思われる。


「月並」は「月次つきなみ」とも書き、本来は「毎月」「月々」を意味している。稽古事、遊びの会、催し物、武道の試合など、月ごとに行われているものはすべて「月並の会」であった。俳句における「月並」も「月々に定期的に行われる句会」のことで、現在の一般的な句会もほとんどが「月並俳句会」に該当する。ちなみに柔道の講道館では現在も「月次つきなみ試合」が行われている。

子規が活躍していた頃、旧派の各派では現代と同じように月に一回、「月並」の句会が開かれていた。旧派の俳句会の実情、俳句愛好者の具体的な数などは不明だが、非常に盛んであったことは確かである。一方、子規グループの句会は、指導者・子規の病状や仕事のスケジュールが優先だったので、随時の開催とならざるを得ない。そのような面から子規には、自派と月並派の句会の間に一線を画する意識があったのかも知れない。

ともかく旧派を批判する子規の激しい論調は「日本」という新聞に載った。それらの記事はさらにホトトギス集団の出版する単行本にもなり、図書館に保存され、後の世に伝えられて行く。自らの集団の作品や論評などを公的に出版し、社会に広く報せるというホトトギス派の方針は、若くして記者活動に携わった子規のアイディアによるものだろう。

一方、旧派各派の記録や論評などは、現代の各句会と同じく自派の会報に載せるくらいのものだから、いずれは失われる運命にある。つまり現在、図書館に行って月並期の俳句を調べようとしても、旧派の会報や新聞、雑誌類にはまず出会えない。それらの中には子規の論調への反論が当然あったはずだが、関東大震災や第二次大戦による火災、そして旧派の俳人の死去などによって、ほとんどが失われたのではないだろうか。

※子規は一八九二年(明治25)に帝国大学(現・東大)国文科を中退、新聞「日本」に入社したが、それ以前(大学在学中)から同紙に俳句に関する論評、随筆などを書いていた。

※俳誌「ホトトギス」は日清戦争の従軍から帰った正岡子規が病を癒すために滞在した故郷・松山で新たな俳句の振興を説き、明治三十年一月、子規の弟子の柳原極堂を中心に創刊された。後に発行所を東京に移し、子規没後の明治三十五年以降、高浜虚子が編集を引き継いだ。

「近代俳句のあけぼの」

私は前述のように、大学教員になって文章表現の研究のために名句集めを始めたのだが、やがて「俳句史百年余の空白」に気付いて俳句史研究や調査に方向を転換した。目指したのはもちろん「月並探索」で、月に何日かの暇が出来ると図書館や古書店巡りを続けていた。しかし一茶以後の俳句作品には簡単に出合えない。めぼしい収穫がないまま数年が過ぎて、月並探索はもうやめるか、と思い始めた頃、幸運にも一つの書に出会うことになる。

二〇〇六年の初夏の頃だったと思う。何かのついでに東京神田・神保町を訪れた時のこと。ふと入ってみた古書店の二階の棚に「近代俳句のあけぼの」(市川一男著)という分厚い本を見つけた。月並時代の俳句に関する記述がありそうなタイトルである。

棚から取り出し手に取ると、ずしりとした重みがあった。本の作りは簡素だが、箱の厚さは五㌢ほど。二分冊に分かれ、その「第一部」は江戸末期から明治後期の(つまり月並俳句を主体とする)俳壇史であった。そして「第二部」はその時代、つまり月並期の俳人紹介と俳句作品集に分けられている。

目次にざっと目を通し、月並時代の俳句について詳しく述べている、と判断できた。古書店の売価は定価とほぼ同額の六千円余り。思い切って購入したところ、読み進むにつれて、期待を遥かに上回る内容であることを知る。消えかけていた月並時代への探索心に再び火が付くことになった。

同書の発行は昭和五十年(一九七五年)四月。古書店店主の説明や製本の仕様などからも私家版(自費出版の書)と思われた。出版部数は少ないはずで、一般書店の棚には並ばなかったのだろう。私はやがて同書の購入額、つまり定価とほぼ同額の六千円余を「望外の廉価」と思うようになって行く。

著者・市川一男氏はなぜ、「近代俳句のあけぼの」の執筆に至ったのか。執念にも似たその思いと理由を第一部の「はじめに」と「おわりに」に書いている。

  • これまでの俳句史家や学者と言われた人たちが、頭から堕落、俗化したと極めつけ、この時期(月並時代)に一生懸命に、まじめに努力した数多くの俳人たちの作品や業績を全く無視、閑却して いるように思われるので、敢えて筆を執った次第である。(第一部「はじめに」から)
  • もう十年若かったら、私はこの本につづけて「近代俳句史」と名付けられるものを書いていただろう。しかしもう時間がない。私は若い好学の士があって、子規の出るまでを「俳諧史上最低、不毛の時間」と妄断し、その軽率、無責任な前提の上に書かれている多くの〝えせ近代俳句史〟を書き換えて下さることを信じながら筆をおくことにする。(第一部「おわりに」から)

市川氏は一九〇一年(明治三十四年)の生まれ。原石鼎に師事し、後に口語俳句や自由律の句作りに転じている。本業は特許関係の事務所の所長、つまり法律家であった。俳句史の誤謬をそのままにして置けない正義漢だったのだったのだろう。ある時期、月並時代の俳句に対するいわれなき悪評に気付き、その時代を真面目に生き、真摯に句作していた人たちに正しい評価を与えようと、渾身の力を振り絞ったのである。

しかしこの書によって、俳句史の百余年間を覆う「卑俗・陳腐」の汚名がそそがれることはなかった。一般書店の棚に並ばず、多くの読者を獲得出来なかったからだろう。第一部、第二部を併せて八百頁に及ぶ大冊であり、高価でもあった。

市川氏はもちろん、いくつかの出版社に原稿を持ち込んだはずだが、断られてやむなく自費出版に踏み切ったのだと思う。市川氏が声を掛けたはずの出版社側、そして書の真価を確認すべきマスコミ側には、当時の俳句界を一手に纏めていた大集団、ホトトギス派への気兼ねがあったのかも知れない。

空白の時代が見えてきた

神田・神保町の古書店で市川氏の「近代俳句のあけぼの」を手に入れた直後のこと。私は、さっそく近くの喫茶店に入り、二分冊の薄い方の「第二部 幕末明治の俳人とその作品」を取り出した。目次を見ると「永機」の項が目に入った。幕末・明治初期の代表的な俳人、老鼠堂・穂積永機である。永機は果たしてどのような句を作っていたのか……。三十句ほど並ぶ中の一句に私は目を奪われてしまった。

吼えやみて流るる牛や秋の川     穂積永機

牛が「吼える」という表現にまず意表をつかれた。子供の頃から、牛は「モーと鳴く」という固定観念があった。しかし牛の体格や声の大きさからすれば、「吼える」と言った方が相応ふさわしいかも知れない。上流で大きな秋出水があり、牛が流されたのだ。牛は吼え、あがいて岸に泳ぎ着こうとしたが、水の流れには敵わない。力尽きたのか、諦めたのか、もはや流されるままである。

この句の中に月並の特徴とされる「卑俗、陳腐、駄じゃれ、小利口」などを見出せるだろうか。牛は滔々たる川の流れに身を任せるほかはない。押し流されていく牛の悲しげな表情が目に見えるようだ。美しい句とは言い難い。名句と賞するほどでもないだろう。しかし子規の唱えた「写生」そのものの句ではないか。月並時代の俳句について抱いていた私の認識は、この一句で完全に逆転する。さらにこの書を読み進むうちに、月並時代の俳句は明らかに誤解されている、という認識を新たにした。

「近代俳句のあけぼの」に載る永機の句の中から、多くの人々に鑑賞して頂きたい一句を挙げよう。

紅梅や夜は薄雪に明けはなれ     穂積永機

紅梅と薄雪のかもし出す色彩感覚、表現力は高く評価できると思う。作者・永機は俳句史書の中で「低俗な季題趣味と小理屈に終始し」などと非難され、月並派・堕落派の親玉とされてきた人である。この句を見るだけで、子規と同時代に活躍していた旧派の宗匠たちの本質と実力をうかがうことが出来るのではないだろうか。

市川氏は同書の第一部「幕末明治俳壇史」の「おわりに」で以下のように述べている。

  • 天保から明治中期にかけての俳諧(俳句)を、俗悪で非文学的と断じ、この時期を俳諧史上最低、不毛の時期と極めつけた俳諧史家、学者の諸説が、いかにいい加減で無責任なものだったかということが、はっきりと分かった。
  • 芭蕉以後、天明、化政期の俳諧の移り変りのあとを受けて、この時期の俳人たちは『古びに陥るまい』と自戒しながら、彼らなりに精一杯、俳諧の実作とその研究にいそしんでいる。この人たちは私たちの祖父、曽祖父の時代に当る人だが、封建の世から近代に移るこの国の激動期のなかで、まじめに一生懸命に俳諧活動をしていたのだ。

市川氏は月並時代の俳句を丹念に拾い上げ、綿密に調べたうえで、この時代を以上のように評した。氏が「近代俳句のあけぼの」を執筆するにあたって調べた資料・文献類は「積み上げれば身の丈を超えた」という。資料類の多くは江戸時代から明治時代初期にかけての木版印刷物のはずで、その文字は一般の崩し字や書道における行書体、草書体とも異なるという。氏はそんな木版文字を、軽々と読みこなしていたのだろう。

なお「近代俳句のあけぼの」の「第二部」に納められた俳句作品の作者・五百八十余人は「月並」に属する俳人ばかりではなかった。正岡子規、内藤鳴雪、高浜虚子をはじめとする子規派俳人の作品・経歴も並んでおり、その数は百十人余に及ぶ。市川氏は旧派(月並派)と新派(ホトトギス派)、つまり〝その時代〟を生きた俳人のすべてが「近代俳句」を作り上げて行った、と考えておられたのである。