神田・神保町の古書店で「近代俳句のあけぼの」を購入して半年ほど過ぎた頃から、弾みがついたように月並探索に関わる数冊の書が私のところにやってきた。最初の一冊が穂積永機編「俳諧自在」(博文館発行)である。非常に変わった俳句の作り方の本なのだが、句作りのために並べた作品群の、特にアマチュアクラスと思われる人々の句がなかなか魅力的で、当時の健全な俳句の世界を知ることになる。
続いて「伊那の放浪俳人」として知られる井上井月関係の「漂泊俳人・井月全集」(井上井月顕彰会編)と井月編「俳諧三部集」(井上井月顕彰会発行・竹入弘元解読)を手に入れた。
そしてもう一冊、伊那で育ち、京都で宗匠になった月並期の俳人・北野五律の評伝「俳人五律」(北野直江、野畑博之著)も挙げておきたい。この書は五律の子孫筋にあたる著者・北野氏から頂戴したもので、後に書く井月の長旅に関わる考察に関わる内容を秘めていた。
以上の書からまず、現代ではあり得ないタイプの俳書「俳諧自在」を紹介しよう。この書は知り合いの編集者が奈良県の古書店の棚から探し出してくれた。明治時代の有力出版社・博文館の発行。古色蒼然の表紙は黒に近い深緑色で、時代を経た聖書を思わせた。文庫本サイズで何と千二百頁以上、厚さは六cmほどになるだろう。
第一頁の「序」には句読点や濁点のない数百字が記されていた。「遠くは『円機活法』近くは『詠歌自在』なと(ど)いへる書類も数々あり俳諧発句にも見ゆれと(ど)あらましの事にてくはしくは(詳しくは)……」というような書き方である。
この序文によって私は、佐々木弘綱の「詠歌自在」という著書の存在を知った。国立国会図書館(東京)の蔵書の中に、この上下二巻(明治26年東雲堂刊)があったので、「俳諧自在」の本文を読み始める前に目を通しておくことにした。読み始めて間もなく、同書の意図を了解した。
簡単に言えば「詠歌自在」は短歌づくりの書で、その本体は既存の短歌の「五・七・五・七・七」をばらばらにした〝部品〟を、脈絡もなくただ延々と並べている。中国明代の書「円機活法」を参考にした、と書いてあるが、簡単に言えば「短歌の部品群から五音、七音を適当に選び、一首作ってください」という趣旨の本であった。
編者の佐々木弘綱は芸術院会員、文化勲章受章者で、明治~昭和の著名歌人・佐佐木信綱(佐佐木に改姓)の父でもある。編者名からして高い格調を思わせるのだが、現代の短歌や俳句の作り手がこの書を読み出せば、誰もが「こんなことしていいの?」と言いたくなるはずである。
一方、永機編の「俳諧自在」の編集方針は「詠歌自在」と似ているが、いくらか異なっていた。俳句作品の〝部品〟だけを並べた頁も少々あったが、すぐに〝完成品〟の部が現れるのだ。以降はどの頁も、五七五の完成作品がびっしりと並んでおり、こちらは「適当にバラして、どうぞ」と勧めている。
「詠歌自在」も「俳諧自在」も、現代では仰天すべき指導法を書いているのだが、これは当時の短歌や俳句の〝普通の作り方〟であったようで、実は子規も同じように教えていた。
古句を半分位盗み用ふるとも半分だけ新しくば苦しからず。時には古句中の好材料取り来たりて自家の用に供すべし。 (「俳諧大要」)
「俳諧自在」「詠歌自在」、そして子規の「古句を半分位盗み用ふるとも……」。当時の短歌、俳句の大御所たちの教え方は同一線上にあった。
「俳諧自在」を点検しているうちに、俳句史に関わる一つの事実に出会った。この書の初版は明治32年8月なのだが、以後も版を重ね、私が手に入れたものは第五版(明治41年10月)。即ちこの書は当時のベストセラーであった。
月並時代の俳句は「子規の登場によって俳句界は一新された」というのがこれまでの常識的な見方だが、永機編「俳諧自在」の第一版は正岡子規存命中の出版であった。そしてこの書はさらに再版を重ね、私が手に入れた第五版は子規没後六年目の出版なのだ。子規の活躍期から没後まで、かなり売れ続けていたことになる。この一事を「塀の穴」とし、当時の俳句社会の内側を覗けば、新派と旧派が混在する当時の俳句界全体が、ぼんやりと現れてくるように思われた。
穂積永機編「俳諧自在」は新年の項に始まり以下、春、夏、秋、冬の各季、さらに神祇、釈経、恋、無常に分かれていた。どの章も数頁は「詠歌自在」に倣ったように五七五をばらばらにした上五、中七、下五がサンプル的に並んでいるが、各章はすぐに俳句の完成品の部となる。その頁数は完成句の方が圧倒的に多く、読者に「それらの各句(五七五)から部品を自由に抜いて並べ、別の句に仕上げてください」と勧めているのだ。
完成句は六五〇頁ほどに渉って合計九千七百句余り。すべて作者名(俳号)付きである。「春」の部で言えば「梅」は約三百六十句、「花(桜)」は約四百五十句にもなる。どの季語も歳時記などとは桁違いの句数を揃えており、新年から春、夏、秋、冬へと続いて行く。
それらの句の作者たちは「梅」を例にとると、はせを(芭蕉)、鬼貫、其角らから闌更、太祇、大江丸ら江戸中期を経て江戸後期へと続いていく。これらの句はすべて一人一句。芭蕉以下の名の知れた俳人の作は一人一句。一つの季にすれば数句から、せいぜい十数句というところだろう。
「俳諧自在」の句は江戸時代の著名俳人の句に続いて、梅室、芹舎などの句が出てきて月並時代に入ったと判断されるが、その辺りから見知らぬ作者名(俳号)の作品がどっと増えてくる。作り手は月並時代の俳人のはずで、句の大半は其角堂(永機門の各句会)のメンバーの作品と推定された。永機が宗匠級の有力な弟子を集め、孫弟子あたりまで含めて「よさそうな作品を集めよ」と命令したに違いない。
これらの句に目を通すうちに、一つの傾向に気付いた。季語ごとに並ぶ後半の「アマ・クラス」と思われる俳人たちの句に感じのいい句が目につくのだ。巧拙はともかく、健康的な生活感のにじむ句と言えばいいだろう。
それらをパソコンに打ち込み始め、百句を超えた辺りで自分の気持ちの変化に気づいた。おおよそ五句余りに一句ほどの割合だろうか。気に入った句が出てきて「よし」「これはいいぞ」と興に乗ってくるのだ。現代の句会で選句する時のような、そんな楽しさを感じ始めたのであった。
これら旧派に属する無名の人々の句の出来を一まとめに言えば、健康的で生活感に溢れた作品、と評することが出来るだろう。この時代の句を「陳腐、下劣」などとする俳句史の記述は明らかな間違いで、実態を伝えていない、という確信が深まって行った。
その頃、私は「伊那の放浪俳人」と呼ばれる井上井月のことが気になり始めていた。この俳人の名を知った頃はぼんやりと「江戸後期の人か」という程度の認識だったが、「近代俳句のあけぼの」に載る井月の経歴を見て気づいた。彼は月並時代の真っ只中に生きた俳人であった。
越後・長岡藩の武士の家に生まれた井月が、故郷・越後の長岡を出たのはおそらく幕末、「勤皇か佐幕か」で各藩が揺れ続けた時期であった。長岡藩はもともと佐幕系であったが、河井継之助の強力なリーダーシップによって、さらなる佐幕へと舵を切る。井月は、そんな長岡藩の状況に見切りをつけ、藩を出たのではないだろうか。
紐を解く大日本史や明の春 井上 井月
本書の前半「月並千人千句集」新年の部に並ぶ一句である。ここに詠まれている「大日本史」は水戸藩主・徳川光圀の命によって編纂された。神武天皇以来の歴史を述べ、幕末の勤皇思想に影響を与えたとされており、井月の脱藩──放浪の理由を示唆しているようにも思われる。
放浪生活の中から生まれた井月の句はおおよそ正統的で、後に高浜虚子ら近世の俳人からも高い評価を得ていた。その作品群は「月並山脈」の中央に立つ最高峰クラスと見做せるだろう。
井月を調べなければ、と思い立ち、北村皆雄氏(映画監督、現・井上井月顕彰会会長)を通じて「漂白俳人・井月全集」(一九三〇年初版)の第五版(二〇一六年刊)を手にすることが出来た。この書は昭和の初期、伊那出身の医師・下島勲ら「井月応援団」というべき人々によって発刊され、以後も増補を繰り返しながら、北村氏らによる最新のデジタル判までの再版を続けている。
その「井月全集」の後半、井月の句の収集・鑑定で知られる高津才次郎(伊那高等女学校教員)の「後記」を読み始めて間もなくのこと。井月の弟子と思われる人々の作品が八頁にわたって並んでいたのだが、私はその中の一句に目を奪われてしまった。
涼しさや藁で束ねし洗ひ髪 鶴女
作者は伊那の農村女性に違いない。畑などで大いに汗を流した後、小川の際か井戸端などで髪を洗ったのだろう。髪の水を切り、湿らせた藁で束ねていると涼しい風が首のあたりを過ぎて行く……。私はこの句によって農村の句、汗を流して働く人々の句の魅力に気付いた。宗匠クラスや都会に住む者には詠むことの出来ない作品群、とも言えるだろう。
高津の探し出した井月の弟子たちの句をもう少し示すことにする。
桜さくや田舎娘の薄化粧 東水
村の花見の日なのだろう。毎日、野良で働いている田舎娘の「薄化粧」である。花見にやってきた〝娘〟への作者の慈しみが感じられよう。
山はまだ花の香もあり勧農鳥 思耕
初夏の山。花は散り、香りが残る。時鳥が「田を作らば作れ、時過ぐれば実らず」と鳴く。この句は当初、井月の作とされ、芥川龍之介が「井月の名句」と評したが、句の筆跡などから高津才次郎が「弟子の思耕の作」と見破った。
富士見ゆる日の悦びや稲の花 若翠
稲の花が咲き、田んぼから富士が見える。農業者の至福の悦びと言えるだろう。
「井月三部集」(「越後獅子」「家づと集」「余波の水くき」)」を解読した伊那の井月研究家・竹入弘元氏はその解説の中で、「月並時代」の俳句作品、そして井月の弟子たち(多くは農民)の作品について次のように述べている。
江戸末期から明治二十年代までの俳諧を従来著しく低く評価して、沈滞月並等とし、一顧の価値無しとまで考える傾向があった。月並はむしろ指導者層にあって、一般の作者は生活に勤しみつつ、自己の生活感をぶつけた句を作る。生き生きとした文学がどうして有り得ないことがあろう。これらには、言い古された風流ではなく、生活と一体となった風流、生活感溢れる詩歌がある。
竹入氏がその例として示した句の中から、以下の五句を挙げさせて頂く。
- 啼いてのち雉子あらはるる畑かな 坡橋
- 起休み毎にせまるや蚕部屋 由翠 ※「せまる」は「逼る」(狭くなる)か。
- 峯に雪見えるに蝶の舞(ふ)日かな 寿月
- たふたふと畔越す水や春の月 青坡
- 田一枚もつて嬉しやはつ蛙 雪庭
井上井月が伊那谷(伊那盆地)に初めて姿を現わしたのは一八五八年(安政5)、三十七歳の頃と推定されている。深編笠を被り、腰に刀を差していたなどという外見は確かなものではなかった。刀と見えたのは護身用の木刀のようで、近年、蓮根を表面に刻した実物が発見されている。
彼はいつの頃か、武士の立場を捨てて故郷・越後長岡を出たらしいが、生涯の前半については、おおよそはっきりしない。江戸に遊学、幕府直轄の学問所・昌平黌で「佐藤一斎に学んだ」と自身が語っていたという。結婚の経験がある、との推測もある。長野県北部や東部にも足跡が確かめられており、伊那に居ついてしばらくの後、京都や名古屋、江戸、東北などにも旅していて、彼の行路は一筋縄には行かない。
伊那に現れた当時の井月は風格があり、またユーモアも持ち合わせていたようだ。しかし晩年には弟子たちの家を訪ねて一宿一飯を乞うなど、「乞食・井月」の呼び名も生まれた。伊那の人々によって語り伝えられてきた井月の人物像の多くは、アルコールに毒された老年期のものである。
井月の活動を考える上で、大きな意味を持つ長い旅があった。彼の残した「井月三部集」の「越後獅子」「家づと集」などから推察すると、彼は四十歳を過ぎた頃(たぶん一八六三年=文久三)の早春に伊那出て西へ、まず京都に向かった。続いて大坂(阪)、名古屋から東海道を行き、江戸を目指した。さらに関東北部、東北地方南部、北越などへも周り、松本、諏訪などを経て、出発から四、五ケ月後に伊那へ戻ったようだ。
井月三部集の第一集「越後獅子」は「洛」(京都)から始まり、京都の大宗匠たちによる以下に記すような句が並んでいる。私はその中の、梅通、芹舎、蒼山らの名を初めて見た時、「何故だ」と呟いていた。当時、天皇家から最も格上と認定された京都の宗匠中の、特に著名な俳人ばかりなのだ。
この大宗匠らは例えば、江戸で多少、名の知られた俳人が挨拶に行っても、簡単に会えるような人たちではなかったという。ところが「伊那の放浪俳人」がこれらの俳人から当季(春)の句を頂き、自ら編集した句集「越後獅子」に載せていたのだ。その冒頭「洛」(京)」の部から七句を紹介する。
- 雪汁や澄(ま)んとすれば牛車 (堤) 梅通
- 鶏の蜂に目早し落椿 (北村)九起
- 炭竃の道にも白し梅の花 (八木)芹舎
- 紙のしに水引ゆゆし梅の枝 (内海)淡節
- 松風や青田に見れば賑はしき (遠藤)蒼山
- 啼(い)みてなくに定めし蛙哉 (河村)公成
- どれがまた蔓になるやら春の草 (北野)五律
以上の俳人たちの名を見た時のこと。私は井月が京都で「大宗匠名句集」のような書を手に入れ、著名俳人の句を書き写したのではないかと、井月にはたいへん失礼な疑いを持ってしまった。
しかしこの長旅の後、井月は伊那・高遠藩の大物家老・岡村菊叟を(おそらく突然に)訪ね、大いに歓待され、「越後獅子」の序文まで頂戴している。井月は誰に会っても物おじせず、好感を与えるような雰囲気を持っていたようだ。京都の大宗匠たちを堂々と訪ね、一句を頂戴してくるのも、彼にとってはさほどのことではかったのかも知れない。
後に私は、井月が集めた京都の宗匠連の句の中に、伊那出身の俳人「(北野)五律」の名を見つけた。この人は俳句修行で諸国を巡る中、京都の宗匠らと親交を結び、大きな信頼を得ていたらしい。もし五律が梅通、芹舎らに井月を紹介したとしたら、という別の筋書も生まれてくるのだが……。
私は月並時代にある程度の知識を得て二〇一一年、「子規は何を葬ったか」(新潮選書)を上梓し、その中で井月についてそれなりの紙数を割いていた。そしてその翌年、伊那市主催「井月大会」の講演に招かれる。伊那の井月研究家に混じって、そこで話した内容は当然、井月の旅にまつわることである。私は「越後獅子」に載っている京都の宗匠たちとその作品などを中心に、幕末の俳人の作品について話をさせて頂いた。
その講演が終わった後の懇親会でのこと。私の隣の席におられた方が話かけてきた。頂いた名刺には「伊那市教育委員会教育長 久保村清一」とあった。氏はこう言った。
「五律という俳人の句が資料の中にありましたね」
私が井月編「越後獅子」などを参考にして作成し、講演際して配った資料に関することである。五律という名だけは覚えていたが、俳号以外のことは何も知らない。「はぁ、そうでした」などと答えて口ごもる。すると教育長は意外なことを話し出した。
「五律は一時期、私の家の養子だったのです」
養子とは一体? 京都の宗匠・梅通、芹舎らの後に並ぶ俳人・五律が伊那の出身者であることを、その時まで全く知らなかった。
久保村氏によると五律は伊那美篶の北野家に生まれた。彼が伊那・東春近の久保村家の養子になったのは、清一氏から数えて四、五代前の頃だったそうである。当時、久保村家には子供がなく、北野家の五律少年を養子にしたのであった。ところがその後、久保村家に男の子が生まれた。五律少年は養子という立場をしっかり認識していたようだ。
教育長は言った。「五律は自ら家を出て行ったそうです」。五律はその時、久保村家に一句を残していた。
折り曲げて枯るる槿の蕾かな 北野 五律
わが身を槿の蕾に譬えた悲しげな句である。しかし養子の立場を捨てたとは言え、五律と久保村家の関係は途絶えず、親戚関係ほどの繋がりを保っていた。同家では代々、養子であった五律のこと、そして「折り曲げて~」の句のことを、語り継いで来たという。
ここで本章の冒頭部に挙げた俳書の一つ、「俳人五律」について述べる。既に記したように、この書は五律を先祖筋に持つ北野直衛氏と野畑博之氏の執筆によるもので、井月が京都などへ赴いた長旅を考える上での一つのヒントを記している、と私は考えている。
五律は幼い頃から学問に励み、特に俳句への才能を示していた。久保村家を出た後も、伊那で勉学に励んでいたが、やがて俳句修行のための旅に出て行く。そして京都を訪れた際、この地の著名な宗匠たちと親交を結び、才能と教養、そして好もしい人柄を認められ、「京都に庵を結び、宗匠になったらどうか」と度々、誘われていたという。
そして文久元年(一八六一年)の頃、五律は何度目かの京都訪問を機に京都四条烏丸に近く、大宗匠たちの庵が並ぶ辺りに、プロ俳人としての拠点・宇竹庵を結び、開庵立机(庵を開き、宗匠になること)に至る。
井月と五律はかねて、俳人同士の顔見知りだったのではないか、と私は考えている。井月は長らく伊那とその周辺地域で放浪生活を続くけていた。一方、五律は京都、江戸など、全国各地を訪れ、旅の途中で伊那にも立ち寄っていたらしい。伊那のどこかで二人の俳人が出会い、盃を交わすほどの機会があったのかも知れない。
五律の元養家・上記の久保村家の古い箪笥の中に、井月と五律の自筆の短冊が残されていた。この二枚は竹入弘元氏、北村皆雄氏らによって、同じ時に書いたものでないと確認されているが、井月と五律の間には、久保村家を通じて何らかの繋がりがあったことを示しているようにも思われる。
俳句の宗匠とは「公的に弟子を集め、教えることの出来る立場」にあるとされるが、特に江戸後期以降はその資格を得るのが難しかったという。有望な俳人が宗匠になろうとすれば、まず宗匠の家に住み込んで何年かの修行に入り、その修行や俳句(俳諧)の勉学ぶりと実力を認められた後、師の家を出て諸国巡りの旅に出る。
そして各地の名所旧跡などを行脚してさまざまな知識、見識を身に着けた後、師匠の許しを受けて「宗匠立机」、つまり宗匠への認可を得る。その際。師匠は認可の証として連句用の小机を新宗匠に贈ることから「立机」の言葉が生まれたという。
五律は旅から旅への生活の中、何度か京都にも立ち寄り、この地の宗匠らとも交際していた。当時、彼のような俳諧師(雲水)が数多く、中には質の悪い雲水もかなり存在していたようで、村の入り口に「雲水お断り」の札を掲げる村も少なくなかったという。
しかし五律の場合は京都に行くたびに大歓迎を受け、大宗匠らからは「この地で宗匠立机を」と誘われている。俳人としての実力もさることながら、よほど魅力のある人物だったのだろう。ところが五律は長年の長旅によるものか、体調を崩していたらしい。立机から四年後の慶応元年(一八六五年)、京都で死去。享年は五十四歳、あるいは四十九歳とも言われている。
「井月三部集」のうちの二書「越後獅子」「余波の水くき」からの推測によれば、井月は文久三年(一八六三年)の早春に伊那を出て、京都へ向かった。そして大坂(大阪)や尾張から東海道を経て江戸へ、さらに東北や北陸にも回るという長い旅を続けている。この旅は伊那での放浪とは異なり、目的地をしっかりと定めていたようだ。五律の立机後二年、そして死去の二年前のことである。
井月はこの頃から、宗匠立机への思いを深めて行ったようだ。後年(明治前期)、無人の御堂に泊まることを禁じられるなど、放浪生活には辛いことが増して行ったらしい。多くの弟子たちに慕われる師匠であったが、公的には浮浪人としての扱いにされてしまうのが、一番の辛さだったのかも知れない。
宗匠になるための最後の条件には前述のように「諸国行脚」があった。井月の伊那から京都を経て尾張、江戸、東北など広範囲にわたる旅に出ている。そしてその後、各地の俳人から集めた「越後獅子」「家づと集」の出版に至る。宗匠になるための条件の一つ「諸国行脚」を、これらの書によって証明しようとしたのではないか、と私は考えている。
文久三年、春先から初夏に及ぶ長旅を終えた井月は長野・善光寺の宝勝院(塔頭=大寺院に付属する小寺院の一つか)に籠り、集めて来た句の編集にあたった。そして伊那南部・飯田の印刷所を訪れ、二つの俳書「越後獅子」と「家づと集」を完成させた。これが「井月三部集」のうちの二集である。
その第一集「越後獅子」の序文は、伊那・高遠藩の家老、岡村菊叟から頂戴していた。この人は藩の産業振興に努める一方、槍術、砲術の師範を務める大物家老だが、井月の訪問を快く受け入れたようで、「越後獅子」の序文の執筆も快諾している。その序文には井月の活動や人間性の一端も覗われるので、全文(竹入弘元氏解読)を以下に紹介する。
文久三年のさつき行脚井月、わが柴門を敲て一小冊をとうで序文を乞ふ。わぬしはいずこよりぞと問へば、こしの長岡の産なりと答ふ。おのれまだ見ぬあたりなれば、わけてとひ(問い)聞べきふしもなし。まずかたはらなるふみてをとりて
角兵衛が太鼓は過てなく水鶏
※賑やかな獅子舞(角兵衛獅子)の一行が去ると、水鶏の鳴き声がまた聞こえてきた。是(この句)を引出物の一笑にて濁酒一盃をすすめ、知音の数にくははり(加わり)、はし文のもとめを諾す。もとより此句集のよしあしを撰みたるにあらず。足をそらに国々をかけ巡りたるあかし文なれば、これもかの角兵衛がたぐひならんかと、この小冊に越後獅子とは題号しぬ ──鶯老人(菊叟には「鶯老」の俳号もある)
菊叟は「角兵衛が~」の句を即興で詠んだ後、「(井月に)濁酒一盃をすすめ、知音の数にくははり」と書いた。つまり高遠藩の大物家老が「井月の知人の中に加わった」というのだ。初対面の放浪俳人に対する大物家老の好意溢れる文面だと思う。
さらに重要な言葉が続く。
もとより此句集のよしあしを撰みたるにあらず足をそらに国々をかけ巡りたるあかし文なれば
「この句集は自分の脚で歩き、諸国を巡った、という証拠なのだ」と菊叟は書く。宗匠になるための重要事項、井月の「諸国行脚」を高遠藩の大物家老・菊叟が保証したことになる。しかし井月は終生、宗匠の資格を得るに至らなかった。
井月の編集した「越後獅子」と「家づと集」に目を通すうちに、私は重大なことに気づいた。二集に載せた上記・京都の大宗匠らの句、さらに尾張、江戸から東北、北陸などで集めた「宗匠クラス」の句などに続いて、伊那など信州各地の弟子たち、つまり一般の俳句愛好家と思われる人々の句が一人一句ずつ、つまり地域ごとに何十人もの句を集め、宗匠らと同じように並べられていたのだ。
京都の大宗匠に続いて地方の宗匠の句を並べる辺りまでは理解できる。ところが井月は彼の弟子たち、つまり伊那やその周辺部に住む農村部の人々の俳句作品を両句集に一人一句ずつ、何百句も並べ置いていたのである。
井月はなぜ、このような句集を作ったのだろうか。延々と続く作者の地域名には中ツボ、八ツデ、ノグチ、フクヨ、ソリメなどなど、小さな部落と思われる地域名が何十も並んでいた。そのような場所に住む人々の作品を大宗匠らの句と同じように一句ずつ、言わば同格に置いているのだ。このような句集が他にあるだろうか。その範囲をたとえ「俳句史上」と最大限に広げたとしても、他に存在するとは思えない。
両句集には松本、シホ尻(塩尻)、諏訪など信州各地から集めた句のほか、「行脚」、「川下り」などの項目もあった。井月は旅で出会った人にも声を掛け、世間話でもしながら、旅人たちに一句、一句と求め、「越後獅子」「家づと集」に掲載していたようである。
井月がこのような句集を作った意図はもちろん不明である。弟子たちとの酒を生涯の楽しみにしていた井月のこと。彼らを喜ばせてやろう、という程度の気持ちがあったことは間違いない。俳句という文芸に対する彼独特の思想があったようにも思われるが、その辺りのことは不明、とするほかはない。
井月の二句集から「月並時代 一人一句集」のアイディアが浮かんできた。市川一男氏編著の「近代俳句のあけぼの」には、旧派の宗匠やその弟子たちと思われる五百八十余人(他に新派の百五十人)の句が何千句と並んでいた。永機編の「俳諧自在」からも永機の弟子や孫弟子と推定される人々の秀句、佳句を相当数拾えるはずだ。そして井月編の「越後獅子」などの二句集もある。「千人の千句」は十分にいける、との確信を得た。
井月はどんな人物だったのだろうか。武家の出であったことは確かである。三十代の頃、越後長岡の生家を出て、俳句に生きようと心を定めたのだろう。各地を放浪した後、旅人を優しく遇する伊那に居つき、心ある人々の家や無人のお堂などを一夜の宿とする。
しかし晩年の維新後は、浮浪人による堂の宿泊は認められない時代となった。老いた後は襤褸をまとって野宿し、悪童たちに石をぶつけられることもあった。そして一八八六年(明治18年)の二月、伊那市から駒ケ根市に通じる街道(現・県道十八号線)の火山峠近くの乾田で、倒れていた井月が発見される。
村人らが発見した時、井月はまだ息があった。弟子たちが集まり、彼を養子として自家に入籍させていた弟子・塩原梅関の家に運ばれて年を越したが、一八八七年(明治20年)二月十六日に永眠する。
このような井月を、最初に世に送り出した人は伊那出身の医師・下島勲である。彼は子供の頃に見ていた井月の風貌を以下のように述べている。「顔面は無表情の赤銅色で、彫刻のような感じだった」。「鼻も口もかなり大がかりで、大隈(重信)侯爵のお顔をみると井月を思い出した」──。彼は少年の頃、老いた井月に石を投げた悪童の一人であった。
私が「井月全集」に載る下島の言葉を知って数か月後のこと、東京・新宿区の早稲田大学に行く機会が出来た。そして同大学キャンパス内に入ってから、「そうだ、大隈さんの銅像が……」と気づく。そして広場に中央に立つ重信像の真下に立って、角帽を被り、口を「への字」に曲げた銅像の顔をしばらくの間、見上げていたのであった。