清瀬吟行を開催

10月18日(土)、日経俳句会・番町喜楽会合同で東京清瀬市の清瀬サナトリウム跡地や国立ハンセン病資料館などを巡る「清瀬風立ちぬ吟行」を実施した。参加者は、大澤水牛、金田青水、坂部富士子、中村迷哲、廣田可升、向井愉里、杉山三薬の7人。

昭和6年に東京府清瀬村に設立された「東京府立清瀬病院」と同14年設立の「傷痍軍人東京療養所」を引き継いで、現在の独立行政法人東京病院になった。昭和20年代には府立清瀬病院を中心に十数の結核療養所が設置され、5千人もの患者が治療を受け、俳人の石田波郷、小説家の吉行淳之介、福永武彦、結城昌治などが療養していた。しかし現在は結核で長期療養する患者が減ったせいか、サナトリウムのあった場所は草茫茫の広大な空地で、往時、療養患者の憩いの場であった「桜の園」など、植えられて80数年たち寿命の尽きたソメイヨシノが朽ち折れたまま放置されている。一行はそうした手入れのされていない雑木林、草むら、病院の職員寮などが点在する中をただただ歩く。誰も取らない実をたわわにつけた柿の木や蜜柑の木が寂しげだ。結核療養という性質上、文化遺産とか、歴史遺産というには、憚られるものがあるのだろう。残す、というより、消えて行くのを待つという気配が感じられる。清瀬市などが作っている歴史資料にも「負の遺産」と表現された例が記されている。

次の目的地はもう一つの負の遺産「ハンセン病資料館」。ハンセン病療養所「多摩全生園」に隣接して、一九九三年に設立され、これまでに約五十六万人が来館したという。療養所といえば聞こえは良いが、実態は隔離施設。療養所内を再現したジオラマや、収容された人たちの作った日用品から囲碁将棋をはじめとした趣味の道具類等、一つ一つに患者たちの苦悩や思いがこもっている。一同、そうした展示資料、事実の重さにすっかり圧倒された。館を出た句友たちしばらく無言で帰路についた。吟行目的地としてはおよそ不似合いなものではあったが、実に深い感銘を受けた。

吟行句会はいつものように後日、幹事に三句メール送信し、メールで互選する方式をとった。参加者7人の代表句は次の通り。

折れ朽ちし桜の園の秋の蝶        大澤 水牛

吾が血潮いくらでも吸へ秋やぶ蚊     金田 青水

もぎたての柿を拭きをる句友かな     坂部富士子

秋闌けて思いは重い資料館        杉山 三薬

救癩の重き歴史や秋の園         中村 迷哲

置き去りのベンチのモダン冬隣      廣田 可升

木の実降る緑陰通りそぞろ行く      向井 愉里

(報告 杉山三薬・大澤水牛)

 

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