新春恒例多摩川七福神吟行

7人が滑って転んで福詣

日経俳句会、番町喜楽会合同の新春七福神詣を1月5日、多摩川下流域大田区矢口の「多摩川七福神」で行なった。恒例のこの行事も数えること21回。初回から今回まで参加しているのは、水牛さん一人になってしまった。場所も都内はほぼ行き尽くし、来年はどこか良いところないかと、早くも心配するほど。日本海側、東北北海道の大雪を尻目に、晴天続きの関東地方。この日も雲は少しあるが、風もなく穏やかな冬日和となった。集合場所の東急多摩川線武蔵新田駅に集まったのは、大澤水牛、池村実千代、須藤光迷、廣田可升、向井愉里、中村迷哲、杉山三薬の7人。

この七福神の由来はこうだ。1358年、南北朝時代の関東武将新田義興が、多摩川の矢口の渡を渡る際に、敵足利方に寝返った船頭に船の栓を抜かれ沈没、家臣10人と共に殺された。太平記にも記されたこの事件の顛末を後年、戯作者福内鬼外(平賀源内)が浄瑠璃「神霊矢口渡」として世に広めた。無念の義興の怨霊を鎮めようと建立されたのが新田神社で、同神社を軸に2014年、多摩川七福神が設置された。7人がまず向かったのが新田神社(恵比寿)。七福神巡りの地図、パンフレット類を作り、頑張っている。正月休み最終日とあって人出も多く、境内では南京玉簾など数種の大道芸が行われていた。裏手には謀殺された義興の胴体が埋められたという塚がある。祟りがあるから入ってはいかん、との立札が立ち、頑丈な柵で小山がすっぽり覆われている。薄暗く、なんとなく魔界の雰囲気。

新田神社を出て十寄神社(毘沙門天)、工場跡地に出現した大きなマンションと古びた工場兼住宅が混在する街並を通り抜け、三番目の東八幡神社(弁財天)に詣り、道を渡って多摩川土手に出た。目の前に大きな風景が広がった。遠くに霞む富士。穏やかな正月の陽を受けて、子供たちが、ボードを敷いて滑る「草すべり」に興じていた。見ていた老人たち、米寿間近の人までもが、尻滑りを始めた。二十歳の孫が自慢の実千代バアバも「ズボンだから大丈夫」と華麗に滑って行った。矢口の渡の跡を示す石碑は見当たらず、小さな説明板と、水際の石階段のみ。

さあ、お参り再開。延命寺(寿老人)へと北へ向かって歩く。さらに北へ。氷川神社(大黒天)に着く。残る二ヶ所は東急多摩川線の踏切を渡ってすぐの所にある頓兵衛地蔵(布袋尊)。裏切って義興謀殺に加担した船頭の頓兵衛が、罪を悔いて作った地蔵だとされる。七福神の親分、新田神社からすれば、にっくきトンベエのはずが、これを許して七福神の仲間に加えたわけだ。心が広いというか、客寄せ上手の平賀源内流というか?七番目の矢口中稲荷神社(福禄寿)は武蔵新田駅のホーム裏にひっそりと建ち幟が無ければ素通りしてしまう。かくて無事すべての行程を終了。光迷さんと可升さんは帰宅。五人が駅近くのもつ焼屋へ行く。下町らしい雰囲気の賑やかな店で天候に恵まれた一日を終えた。

吟行句会はいつものようにメール方式で実施。参加者が各3句を投句、5句選の結果、池村実千代さんの「厄年も遠くにありて福詣り」と杉山三薬さんの「町工場名残りの細道冬うらら」がともに4点を得て一席を分け合った。二席3点には三薬、可升、愉里さんの4句が並んだ。参加者の代表句は下記の通り。

厄年も遠くにありて福詣り        池村実千代

敵味方仲良く多摩川七福神        大澤 水牛

多摩堤すべってころんで初笑       杉山 三薬

お神酒受く破魔矢の元祖かたわらに    須藤 光迷

福詣締めはもつ焼き大明神        中村 迷哲

初春の運気呼び込む玉すだれ       廣田 可升

浄瑠璃の舞台辿りて七福神        向井 愉里

(報告 杉山三薬)

 

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