左義長(さぎちゃう)

 正月15日、小正月の日に行う一種の火祭りである。「とんど」とか「どんど焼き」「さいと焼き」などとも呼ばれる。今日では単に松飾りなどを焼いたり、子供が書初を焼いたりする焚火に堕しており、ことに焚火が禁止されている都会では行われなくなり、すっかり忘れられてしまった。しかし東北地方をはじめ日本全国の田舎では依然としてこの伝統行事を守り続けている村も多い。また観光ブームで郷土色豊かな行事が持囃されるようになり、長らく途絶えていた左義長が復活したり、下火になったものを旧に復したりする動きもあるようである。

 「さぎちょう」とは意味も語源もよく判らない妙な言葉である。奈良時代か平安時代初めに中国から伝わり、宮中で行われるようになった正月行事が民間にも広まったものらしい。そのころは「三毬打」とか「三毬杖」と表記されていた。「徒然草」第180段には「さぎちゃうは正月に打ちたる毬杖を、真言院より神泉苑へ出して焼き上ぐるなり。云々」とある。毬杖(ぎちょう)というのは正月に若者や子供たちが木製の毬を打って遊ぶ日本式ホッケーで、その用具である先に槌のついた棒である。「枕草子」には悪童どもが桃の木に登り、下で待つ子が「ボクに毬打切ってよ」と頼むシーンが出て来る(144段)。平安時代には子供たちのごく一般的な遊びだったらしい。

 徒然草に出て来る毬打は宮廷で行われる正式な遊技で、その用具も大人用のものだったのかも知れない。とにかくその毬打を三本組み合わせて立て、そこに門松や注連飾り、あるいは吉書(宮廷で新年など吉日に奏聞する文書、後には目出度い詞などを書いた書初のようなものも言った)を掛けて焚いたのである。もしかしたら、この場合に用いられたのは毬打そのものではなく、毬打に似た棒だった可能性もある。それを篝火のような形に立てた姿が毬打を三本組合せたように見えたので「三毬打」としたのかも知れない。

 真言院は平安時代の大内裏にあった修法の場であり、神泉苑は二条にあった祈りの場兼天皇家の庭園であった。いずれも平安京造営に関しての祈願の場所で、弘法大師と縁が深い。そういう点を考えると、三本の毬打を立てて火を掛ける行事は密教の修法と何らかのつながりがありそうな気もする。

 「左義長」という字が宛てられたことについては、貝原好古編「日本歳時記」(貞享5年=1688年刊行)の正月十五日の項に「今日を上元といふ。是道家の説なり。今暁門松、注連縄等を俗にしたがひて焼くべし。(中略)日本のさぎちゃうは僧家にいひつたふるは、後漢の明帝の時初めて天竺よりもろこしに仏法わたる。五岳の道士是をやぶらむと訴ふるによりて、そのしるしを見んとて、仏経を左におき、道士の書を右におきて火をかくるに、道士の書焼けたり。されば左の義長ぜりといひて左義長と云」とある。

 後漢時代に道教の道士たちが新興勢力の仏教の僧侶と宗論を闘わせたことは事実で、この時、仏教と道教の教典とを左右に置いて火を掛けたら左側の仏教教典は焼けなかったので「左の議論(すなわち仏教)が勝ち」とされて、以後、上元に焚く火を「左義長」と呼び慣わすようになったと言うのである。ただし貝原好古は江戸初期の儒者林羅山の説を引いて「是は沙門のかきおける事なれば、我道を誇りたるなるべし。しかれば拠とするにたらず」と切り捨てている。結局、「さぎちょう」という行事をなぜ左義長と書くようになったのか、正確なことは分からずじまいである。

 とにかく平安の頃から宮中では正月十五日朝に正月飾りを焼いて神や仏に祈る儀式が行われていたことは確かなようである。一方、民間には正月の一連の行事が一段落したところで、お正月の神様を天に送り帰す、いわゆる「どんど焼き」が行われていたらしい。村外れの岡の麓とか、浜辺とか、村から本街道へ出る交差点に当る所とか、どんどの大焚火を行う場所は決まっていた。大概そういうところには道祖神(サイト神)が祀られていることから「さいと焼き」とも呼ばれていた。そいう場所には小屋を造り、若者たちが数日間寝泊まりして寝食を共にしながら十五日を迎える習慣もあった。一種の若衆宿であり、集団教育の場でもあった。こうした民間習俗と宮中の行事がくっついて室町時代には現今行われているような「左義長」の形式が整ったようである。

 左義長、どんど焼きは、元旦に降臨し地上に留まっておられた神様を、正月飾りを焚いて、その炎と煙と共に天に送り返す儀式である。だから左義長の燃え上がる火は神聖なものであり、その熱気や煙を浴びれば一年間の無病息災が保証される。その火であぶったものを食べればやはり効験がある。というわけで餅や団子を焼いて食べた。関東地方を中心に中部、東北など養蚕の盛んな地方では柳や榎の枝に繭の形に作った団子をたくさん刺した繭玉を作り、正月に飾ったが、これもどんど焼きの火であぶって食べた。もちろん今年の繭の出来を神に祈ったのである。また書初をどんどの火にくべて、燃え殻が空高く舞うと「手が上がる」ということで盛んに行われた。

 また青竹を左義長の火にくべて、爆発させて高らかな音を立てることも行われた。これは中国で今日でも正月(春節)に盛んに鳴らす爆竹の原型である。「爆竹」と書いて「さぎちゃう」とルビが振ってある俳諧もあるから、我が国のどんど焼きで爆竹を鳴らすことも多かったようである。  このように左義長は語源もはっきりしないまま、古来から日本人に親しまれてきた正月行事であり、俳諧にも盛んに取り上げられ、近代俳句でもよく詠まれている。どちらかと言えば静かな正月風景の中で、動的でちょっぴり神秘的な火祭りが強い印象を与えるせいであろうか。


  左義長に尻あぶりゐるも男気ぞ   池西言水
  餅焼くをおいとま乞のどんどかな   炭太祇
  どんど焼きどんどと雪の降りにけり   小林一茶
  左義長へ行く子行き交ふ藁の音   中村草田男
  左義長や婆が跨ぎて火の終   石川桂郎
  左義長の火入れ待つ闇濃くなりぬ   清水基吉
  左義長の闇を力に火の柱   檜紀代
  左義長やまっくらがりに海うごき   岸田稚魚
  雪の上を燃えつつ走る吉書かな   井上白文地
  暮し向き小さくなりしよ飾焚き   殿村菟絲子

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