「貞享四年丁卯 貝原好古編録 損軒先生刪補・日本歳時記」という本がある。巻の一の春1月に始って、巻の七の冬十二12月まで、それぞれの季節の特徴、風物、行事、動植物などについて解説してある。
貝原好古とは「養生訓」で有名な貝原益軒の甥で、益軒が跡継ぎにと期待した優秀な弟子であった。損軒というのは益軒が壮年時に名乗っていた号である。そこからも分かるように、この歳時記には可愛い甥の大事業を助けてやろうという益軒先生の力こぶが見えるようである。益軒はいかめしい漢文の「序」を書いているが、そこには「これまで日本にはちゃんとした歳時記が無かったから、いい加減な解説があたかも真実であるかのように伝わり、それによって人々を惑わせることも多かった。今回、甥の好古がこの事業に取組んで成し遂げてくれた。私もそれに目を通して足りない所を補った」という意味のことを述べている。大変な意気込みだが、確かにこの本は発刊直後から明治時代まで、各方面で珍重されるものとなった。
「日本歳時記」は、6世紀の粱の宗懍が編纂した「荊楚歳時記」を中心とした中国の書物、室町時代の一条兼良の「世諺問答」をはじめとした日本の古書籍など、数々の資料から引用して、好古や益軒の見聞を加えながら、季節ごとの行事や食物、動物、植物の故事来歴から利用方法、果ては健康法まで説いている。ここにはその季節の和歌や漢詩は載っているが、今日の俳句歳時記とは異なり、一種の暦と言うべきものである。ただし、その後出て来る俳諧歳時記はこの本を参考にしていることは言うまでもない。
さて、「日本歳時記」の正月7日の項はこうなている。「七日 人日といふ。……和俗にいへる五節句の初なり。今日七種の菜粥を製し食ふ。七種菜といふハ、歌に せりなづな五形はこへら仏の座すゝなすゝしろこれそ七くさ。……正月上の子の日、若菜七種を奉ること宇多天皇の御宇よりはじまるとかや。また延喜11年正月7日に後院より七種の若菜を供とも見えたり(後略)」。
これからすると、私たちが今でも口ずさんでいる「せりなずなごぎょうはこべら……」の歌は江戸時代前期には歌われていたことが分かる。また、宇多天皇は西暦887年から897年在位なので、平安時代には七種粥の風習が確立していたことがはっきりする。もっとも「荊楚歳時記」には「正月七日には七種菜を以て羹(あつもの=スープ状の食べ物)としこれをくらふ」とあり、奈良時代の宮廷はこの書物を教科書並に扱っていたようなので、七種粥も先進国文化として取り入れていたかも知れない。万葉集にも有名な「君がため春の野に出て若菜つむ……」があり、当時から野草を粥に炊き込んでいた可能性は大いにある。
我々の祖先は、雪を掻き分けるようにして萌えいづる七草に新生の気を感じ、その勢いを少しでも体内に取り込んで精気を養おうと願ったに違いない。
ところで旧暦の昔の正月7日は、今のカレンダーで言えば2月半ばから3月初め頃になる。若菜は盛んに伸びている。しかし現在では1月初めに野原に出てもすぐに見つかるのはハコベとナズナ(これが大きくなるとペンペン草になる)くらいのものである。スズナは蕪、スズシロは大根だからまあ手に入る。都会の住人としてはこれに小松菜でもまぜて七種粥とするくらいがせいぜいである。1月6日に若菜を揃えて、その晩に刻む。7日の早朝に刻む家もある。とにかくまないたに乗せた七草を包丁でトントン叩きながら、「七草なずな唐土の鳥が日本の土地に渡らぬ先に、ななくさなずな……」と歌い続けるのである。悪霊や疫病をこれによって退散させる呪文の一種である。これを聞いていると、古人はウイルスやバイキンが外国から飛んでくる鳥によって伝播されることを知っていたかのようである。
しかし今では6日の晩も7日の朝も、まないたを叩く音もしないし、囃し歌も聞こえて来ない。お節料理と餅と酒ですっかりくたびれた胃を休ませるのに、7日頃に粥をすするのは真に理にかなったことであり、実際食べると美味しい。健康食ということでまた七草の風習が戻って来るような気もする。
一きほひ六日の晩や打薺 森川 許六
七草の粥のあをみやいさぎよき 松瀬 青々
八方の岳しづまりて薺打 飯田 蛇笏
天暗く七草粥の煮ゆるなり 前田 普羅