一夜明けて新年。初詣を済ませ、屠蘇を祝い、雑煮、お節料理を食べてゆっくりとした正月気分を味わう。今日から新しい年が始まる。たった数時間前の大晦日はもう「去年」なのだ、去年はいろいろあったなあ、という思いに浸る。こうした気分を表わす新年の季語として据えられたのが、「去年」である。
「去年今年(こぞことし)」という同じような雰囲気の季語もある。ただし、この方は連綿として繋がる時の流れというものをより強く意識している。時の流れは切れ目無く続いているのだが、暦では「去年」と「今年」にはっきり分けられてしまう。
蕪村の弟子の吉分太魯は「梅の花去年からこぼす垣根かな」と詠んでいる。梅の花びらが昨日と同じように今日もはらはらと散りこぼれている。しかしその昨日というのも、今日(元日)から見れば、もう去年ということなのだ。昨日と変らない一日なのに、去年と言われると、何となく変ったような気もする。とにかくこれで自分も一つ歳をとったんだなあという思いを詠んだ。
加賀千代女は「若水や流るるうちに去年ことし」と詠んだ。若水というのは元旦に初めて汲む水で、神仏に供え、自らもそれで口すすぎ顔を洗い、邪気を払うものだが、その若水というものも、言ってみれば去年から今年へと流れ続けて来たもので、本来、どこまでが去年の水でどこからが若水ということもない。そんなところの面白さを女性らしい繊細さで詠んでいる。
自然界の動きには無論去年も今年もないが、やはり徐々に動いており、冬から春へ、夏から秋、冬へと変化し、循環している。その姿の移り変わりを観察して、人間は暦を作り、時の流れを切り刻んだ。
除夜の鐘がごーんと鳴って、さあ新年だと人は清新な気分に浸りもするが、「時」というものは連綿と繋がっている。その分かち難い繋がりを「去年」と「今年」に分かつ。人間はそうやってこしらえた暦に従って生きて行く。
「去年」あるいは「去年今年」という季語には、こうした感慨、時の流れに対するある種の思い入れが込められている。だから、言うまでもないことかも知れないが、私たちが普段使っている「きょねん」「ことし」とは違う。ただ単に、去年はああいうことがあった、などと詠んだだけでは「去年」の句にはならない。多分に観念的であり、こなすのが難しいけれど、なかなか面白い季語である。
「昨日」は既に「去年」であり、それは「最も新しい歴史の一ページ」であるということから、「初昔」という面白い言い換え季語もある。旧年、古年とも言う。
去年今年貫く棒の如きもの 高浜 虚子
去年今年闇にかなづる深山川 飯田 蛇笏
去年の月のこせる空のくらきかな 久保田万太郎
命継ぐ深息しては去年今年 石田 波郷
何も変らず遠山に去りし年 永田耕一郎
樫の根の忘れ箒も初むかし 児玉 南草
北限に墨引くごとし去年の貨車 大郷 石秋
ひかり食む牛の反芻初昔 飯田 綾子
去年の雨一碗に受け墓眠る 坂手美保子
黒猫と鍵を預る去年今年 諸岡 直子