初刷(はつずり)

 元日の早朝、郵便受けに入りきらないほど厚い新聞が配達される。これを「初刷」と言って新年の季語としている。雑誌の新年号も初刷として詠まれることもあるが、この方は旧年中から書店に並んでいるのであまり季感が湧かない。

 「初」という字を付けて新年の季語とする例が多い。「初詣」「初夢」あたりが代表的なものだが、近年では「初電話」というのも歳時記に載っている。これは戦前の俳句にも作例があるが、戦後昭和三〇年代になって一般家庭にまで電話が普及し、国際電話も盛んになるにつれて季語として定着した。水原秋櫻子の句に『初電話巴里よりと聞き椅子を立つ』というのがあるが、国際電話というものがそれはそれは大変だった時代の空気が感じられる。近ごろの初電話は携帯電話でのやりとりが多くなっているようである。

 「初」が頭に付けばもちろん「はつ」と読むが、下に付いて「・・ぞめ」あるいは「・・はじめ」と読ませる季語もある。一番有名なのが「書初(かきぞめ)」で、「読初(よみぞめ)」「弾初(ひきぞめ)」「舞初(まいぞめ)」などもある。正月二日に初めて箒を使って掃除する「掃初(はきぞめ)」や、新年になって初めて人と話をすることも「話初(はなしぞめ)」という季語になっている。同じ意味で「始め」を付けても新年の季語になる。

 掃除も読書も、琴三味線やピアノ、バイオリンなどを弾くことも、単独では季語に成り得ないが、「初」や「始」という字を付けることによって、いかにも事改まる新鮮な感じを受ける。これは日本人独特の元旦、新年に対する思い入れであろう。中国人も正月(旧正月)を祝う風習は強く残しており、欧米人にも新年を祝う気持が多少は残っているが、いずれも日本人が抱くほどのものではない。

 「初刷」という季語もいかにも日本的である。元旦に配られるからと言って、なぜその新聞が尊ばれるのか、外国人には理屈としては理解できても感情では納得できないだろう。この季語は比較的新しいもので、初電話とほぼ同じ頃か、その少し前の大正昭和の初め頃から使われるようになったようである。とにかくずしりと持ちおもりのする分厚い元旦号はいかにも年の始めという感じがする。雑誌の新年号も表紙に金箔を用いたりして華やかな装いだが、この方は出版社が競争で発売日を繰り上げ、十二月に入る早々に店頭に出てしまうから、新年という感じがあまりしなくなった。

 『初刷のめでたき重さありにけり 鈴木栄子』と、百ページもの新聞を素直に喜んでくれる読者ばかりだったら新聞社も苦労がないが、『初刷の刷りあやまりし表紙かな 久保田万太郎』というようなこともままあるし、『読むところなしこの厚き初刷は 塩川雄三』と放り出されてしまってはどうしようもない。特に近ごろはテレビも多チャンネル時代で、封切り後まだ日がたっていない映画が茶の間で見られるようになったり、インターネットであらゆる情報が漁れるようになっているから、昔のように「初刷」を有難がる気分はかなり薄れたようである。それでもとにかく、元旦に雑煮を食べてくつろいで、初刷を手にすると、ああ正月だなあという実感が湧いて来る。

 ところで「初」とか「始め」と付く新年の季語は、何日頃まで使えるものなのだろうか。「初刷」は一月一日だけのものであり、「初夢」は元日から二日にかけての夜に見る夢のことだからはっきりしている。しかし、「弾初」や「舞初」、あるいは「初句会」などは正月もかなりたってからでも使えそうである。厳密なきまりは無いようだが、「松納」という季語があるように、六日の夕方門松を片づけ、翌朝の七草粥の頃までというのが穏当なところだろうか。あるいは正月十五日を小正月とか女正月と言い、小豆粥で祝ったりする風習が今もかすかに残っているから、このあたりまで新年の季語のおかしくない時期とも言えよう。

  初刷の新聞匂ひパイプ手に       土師 清二
  草の戸に挿す初刷や旭も斜め      久米 三汀
  鉄瓶の湯気ゆらぐ影初刷に       永井東門居
  初刷の絵付録子等に与へけり      大谷 繞石
  初刷を買ふ新しき財布かな       三橋 鷹女
  初刷のはやとぢてあるホテルかな    山口波津女
  初刷に二重橋なしいつよりか      阿片 瓢郎
  初刷をぼってりと置く机辺かな     松崎鉄之介
  初刷をひろげて部屋を領したる     井沢 正江
  初刷のまぬがれがたき誤植かな     轡田  進

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