羽子つきという遊びもすっかり廃れてしまった。浅草観音の羽子板市は今でも賑わっているから、羽子板そのものが無くなったわけではないのだが、それらはみな飾られるだけなのであろう。
羽子つきという遊技はかなり古くからあったもので、15世紀初め、室町時代には宮廷や将軍家の御殿などで、貴族や女房たちの正月の遊びだった。その頃は羽根のことを胡鬼の子(こぎのこ)、羽子板のことを胡鬼板と呼んでいたというから、それよりずっと以前には、これをついて悪霊退散かなにかを念じる宗教的な意味合いを持つ行事だったのかも知れない。
天文13年(1545年)に出版された「世諺問答」という年中行事の解説書には、「稚きものゝ、胡鬼の子とてつき侍るはいかなることぞや。答、をさなきものの蚊にくはれぬまじなひ也。秋のはじめ、蜻蛉といふ虫出きて蚊をとりくらふ。木蓮子(ムクロジ)などをとんぼうがしらにして、はねつけたり。これを板にてあぐれば、おつる時とんぼうがへりのやう也。さて蚊をおそれしめんがため也」とある。ここからも羽子つきが呪術的な意味合いを持っていたことが分かる。それにしても正月に羽子つきをして、夏の蚊に備えるとはずいぶん気が早い。
室町時代にはもっぱら上流階級の大人の遊びだったものが、江戸時代になって一般にも流行し、女の子の正月遊びとして定着した。
羽子板も当初は板の表面に簡単な絵や模様を描いたり、焼き判を押しただけの素朴なものだったが、元禄時代になって内裏雛を美しく描いた内裏羽子板が登場した。やがて、花鳥や美人などの形を切り抜いた厚紙をきれいな布でくるんだものを羽子板の表面に貼り付ける「押絵羽子板」が現れ、爆発的な人気を集めた。さらに江戸後期になると、歌舞伎の人気役者などを押絵にした豪華なものが生れてますます人気を呼び、女の子の初正月の祝い品として贈る習慣もできた。
ムクロジの黒く固い実に鳥の羽を挿した羽子(ハゴ)を、柄のついた長方形の板で打って高く舞上げる。一人で数え歌など歌いながら何回打ち続けられるかを競う揚羽子(あげばね)、二人で一つの羽子をついて勝負する追羽子(おいばね)あるいは遣羽子(やりばね)がほぼ全国共通の遊び方である。
着飾った女の子たちが、宝物の羽子板を持って、羽子つきをしているのは、何とも言えないのんびりした正月風景であった。それがとんと見当らなくなってしまったのは、やはり横暴な自動車のせいであろう。「遣り羽子の中を大八車かな 白麻」というように、江戸の昔も羽子つきと車の問題はあったようだが、大八車ならさしたることはない。今では住宅地の狭い道路にまで自動車が我が物顔で押し入って来る。それもひっきりなしだから、追羽子は中断ばかりである。子供たちは白け切って、家に閉じこもらざるを得ない。
やり羽子は風やはらかに下りけり 各務支考
新手きて羽子つき上げし軒端かな 炭太祇
大空に羽子の白妙とどまれり 高浜虚子
羽子板や裏絵さびしき夜の梅 永井荷風
羽子板の重きが嬉し突かで立つ 長谷川かな女
羽子板のばれんみだるる纏かな 久保田万太郎
羽子板の役者の顔はみな長し 山口青邨
羽子板のつきくぼめたる裏絵かな 三橋鷹女
羽子板を船員船に持ちかへる 萩原麦草
値切られている羽子板の役者かな 稲吉楠甫