福寿草(ふくじゅそう)

 寒さが最も厳しい時期に、凍てた地面を割って太い土筆のような芽を出し、その先に黄金色の花を咲かせる。その可憐で健気な様子、また福寿草という目出度い名前から正月を祝う花としてもてはやされ、江戸時代初期から新年の床飾りにされてきた。今日でも小さな松や笹、赤い実をつける藪柑子などと寄せ植えにしたものが暮れの花屋の店頭に並ぶ。南天と一緒に植えられた鉢もある。これは「難」を「福寿」に転じるという縁起担ぎである。「元日草(がんじつそう)」「朔日草(ついたちそう)」という別名があるように、正月の花であり、新年の季語とされた。

 確かに福寿草は新年を寿ぐ花なのだが、それは旧暦の正月のことで、太陽暦の元日では花を咲かせることはない。暮れから正月にかけて売られている福寿草はハウス栽培である。晩秋に花芽が出来た福寿草を一ヶ月ほど寒さに遭わせ、それを暖かいビニールハウスに取り込むと、春が来たぞと勘違いして正月に咲いてしまう。本来の花期は二月から三月にかけてである。

 まあそれはとにかく、わずか三、四センチのずんぐりむっくりした茎の先にぱっと花開く福寿草を見ると、なんとも言えぬぬくもりを感じる。新春を迎えて、今年は何かいい事がありそうだという期待感を抱かせてくれるようである。こんなところが季節変化に敏感な日本人の心を捉えたのであろう。学名はアドニス・アムレンシス(アムール川流域のアドニス草)と言い、アネモネの遠い親戚で、ユーラシアからヨーロッパ各地に似た植物がかなりあるようだが、黄金色の花を咲かせる福寿草は日本独特のものである。

 花は太陽が昇る朝に開き、日没とともに閉じる。光に非常に敏感で、日中、満開の福寿草に箱などをかぶせるとものの四、五分でつぼんでしまい、取りのけて陽を当てると間もなく開く。子供の頃、ぽかぽかした縁側に寝そべり、福寿草の鉢に箱をかぶせるいたずらをやって喜んでいたことを思い出す。

 花が咲き終わると人参によく似た葉を茂らせ、三、四十センチくらいに伸びる。そして五、六月ころまでせっせと日の光を浴びて栄養分を蓄え、本格的な夏が来ると枯れて地上から姿を消し、長い休眠に入る。やがてまた木枯らしが吹き始めると花芽をのぞかせるという奇妙な循環を繰り返す。庭に植えっぱなしでもよく育ち花を咲かせるが、二月に入ってからで、しかも葉を茂らせながらその頂上に咲く。これもまた一風変わった味わいがある。

 花屋で買って来た福寿草を翌年も咲かせようと思ったら、深めの鉢かプランターに腐葉土や肥料を混ぜ込んだ土を入れて植え替えた方がいい。福寿草は元来ゴボウのような根をかなり深く伸ばし、そこに養分を蓄えている。正月用の観賞用寄せ植えは、この根を切り詰めて浅い鉢に無理に植え込んであるから、このままでは育つことができず、下手をすれば枯れてしまう。夏場に地上が枯れてしまってからも、鉢の土が乾いたなという時に水分を与えてやれば、やがて冬になるとまた生えて来る。

 「とこしえの幸福」「招福」「祝福」「良き思い出」などという花言葉を持つ福寿草だが、キンポウゲ科の植物だから、茎や根にはかなり強い毒を持っている。土筆の親玉のような芽は一見アスパラガスのようでもあり、蕗の薹のようでもある。いかにも食べられそうに見えるから、山野草ブームに取り憑かれた人が、うっかりこれを天ぷらなどにして食べて吐き気や下痢、眩暈などの中毒症状を起こす事例が時々ある。新年早々そんなことになったら、招福どころではない。物事は見た目と実体は違うということを福寿草も教えている。

 俳句ではもちろん福寿草に毒があることなどは意識の外であり、もっぱら「めでたさ」の象徴として扱われている。古俳諧では「今日咲くは世のほめ草ぞ福寿草 昌意」「福寿草一寸物の始めなり 言水」「花よりも名に近づくや福寿草 千代女」「福寿草咲くや後に土佐が鶴 太魯」というようにもっぱら新春を寿ぐ素材として詠まれている。現代俳句ではさすがにこうした型どおりの祝い歌を詠むことからは離れているが、それでもやはり新春の明るさやはずむような気持、市井人としての幸せといったことを喜ぶ気分が濃い。

  朝日さす弓師が店や福寿草     与謝 蕪村
  帳箱の上に咲きけり福寿草     小林 一茶
  福寿草見てしづかなる命かな    清原 枴童
  青丹よし寧楽の墨する福寿草    水原秋櫻子
  日の障子太鼓の如し福寿草     松本たかし
  いたはりに狎れて籠りて福寿草   富安 風生
  まどろめるわれを見守り福寿草   阿部みどり女
  福寿草平均寿命延びにけり     日野 草城
  妻の座の日向ありけり福寿草    石田 波郷
  福寿草家族のごとくかたまれり   福田 蓼汀

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