雑炊(ぞうすい)

 雑多な具を入れて炊き込んだものだから「雑炊」とは、なるほどうまいことを言うものだと思っていたのだが、これは江戸時代に生まれた字で、その昔は「増水」と書いたのだという。室町時代の国語辞書「下学集」に「増水 こながき也」と出ているそうだ。「こながき」とは米の粉や雑穀の粉を熱湯で溶いた、蕎麦掻きや葛湯のようなものを言う。要するに米の飯はぜいたくだからと、穀物あるいは穀物粉に水をうんと入れて炊いた代用食を「ぞうすい」と言ったようである。

 もしかしたら雑炊も増水も宛て字で、米をはじめとした穀類をどろどろに煮た食物は大昔からあって、後から入って来た漢字の中から似つかわしい字を選んで命名したというのが当たっているのかも知れない。長い年月の間に、その中にいろいろなものを混ぜ込んで、主食と副食が一度に食べられる合理的かつ経済的な庶民の食べ物として定着した。その挙げ句に「雑炊」という単語が出来上がったのではなかろうか。

 雑炊と似たものに粥がある。似たものと言うより、「粥」が本家で、中国には紀元前から粥があり、神前に備えたり、小豆や木の実を加えて炊いた粥を祭りに食べたりしていた。もちろん普段の食膳にも載り、特に同じ分量の穀物が飯として炊くよりは何倍にもふくらむから、貧家の常食となっていた。

 だから同じカユでも、薄粥は「粥(しゅく)」「糜(び)」、糊のようになったものは「餬(こ)」、濃いものは食偏に亶と書いて「せん」というように、細分化され命名されていたほどである。漢字が発明使用された頃の中国の中心部は中原と言われる黄河流域で、当時この地域は米があまり取れず、麦や粟、ヒエの類いが主食だったから、かなり煮なければ柔らかくならず、自然に粥状の食物が発達したのであろう。貧しい暮らしを「餬口」(今日では糊口と書くのが一般的)、皮膚がただれた状態を「糜爛」と言うのも、おカユから出た熟語である。

 このように中国人に親しまれていたカユが、祭祀儀礼をはじめとしたもろもろの文化と一緒に日本に伝わって、正月の七草粥や小豆粥として今でも残っている。もとより日本にも自然発生的にカユのような食物はあったに違いないから、七草粥などの風習は日本人の暮らしにもすんなり溶け込んだ。また粥は病人や乳幼児の食物としての役割も担っている。

 雑炊は粥の手法を真似た、救荒食あるいは耐乏食とも言うべき代物と言った方がいいかも知れない。「増水」イコール水増しという身も蓋もない言い方が、その間の事情を物語っている。

 とは言え、雑炊をそう貧相なものとも決めつけられない。室町時代あたりには、朝廷や将軍の御所の女房、上臈に好まれ、いわゆる女房詞の「おじや」という言葉が生まれたほどである。これはもちろん救荒食ではなく、粥の中に魚介類や野菜を炊き込んだ贅沢な保温食であったに違いない。ちなみに、おじやの「お」は丁寧語、「じや」は物をぐつぐつ煮る時の音を表したものだという。

 雑炊は貧家の耐乏食の路線と、大奥好みの贅沢なものとの二筋道をたどったようである。この贅沢路線が行き着いたところが河豚雑炊、スッポン雑炊、鶏雑炊など料亭で食わせるような雑炊であり、耐乏路線の方は余った味噌汁に冷飯や野菜の切り屑などをぶち込んで増量した文字通りの雑炊である。

 この耐乏路線の極め付けが戦中戦後の雑炊であった。昭和十六年十二月八日未明の真珠湾奇襲攻撃で始まった太平洋戦争。始めの一年はまだ威勢が良かったが、やがて内地はあらゆる物資が欠乏し、ついには主食の米が無くなった。軍部と政府はその時何をしたかと言えば、「雑炊切符」を配ったのである。三越や高島屋などデパートの食堂、銀座から新橋、日比谷、丸の内など都心の一流レストランが軒並み雑炊食堂になった。横浜の繁華街伊勢佐木町では一流デパート野沢屋(松坂屋に買収され、平成二十年閉店)の食堂もそれに指定されていた。

 腹を空かした庶民はそうした店に並んで切符に五十銭を添えて出すと、大きな丼に入った雑炊を渡される。恐らく米1に対して水を10から20くらい入れたものへ大根や菜っ葉、何の魚だか分からないものを炊き込んで味噌や醤油で味付けした「増水」である。壁や床が大理石張りの立派な食堂で、こうした雑炊を啜る光景はさぞかし珍妙なものだったに違いない。しかし年中腹を空かしている食べ盛りの子供にはそんなこと一向に気にならない。これを天来の美味と感じたのである。当時、国民学校二年生だった私にとっては、たまに連れて行かれる伊勢佐木町で食べさせてもらう雑炊が何よりの喜びだった。

 戦後もやはり雑炊だった。伊勢佐木町一帯は表通りの一部を除いてほとんど焼け野が原となり、野沢屋も向いの不二家も、目ぼしい建物は進駐軍に接収され、日本人オフリミットと書かれたレストランやクラブや進駐軍専用の物販店PXになっていた。その裏側から野毛にかけてはびっしりと掘っ立て小屋が立ち並び、闇市が開かれ、何かいいものがないかと探し求める人たちが年中ひしめき合っていた。

 そうした中で一番にぎわっていたのが雑炊食堂だった。石川五右衛門が入れそうな大釜が据えられ、中には雑炊がぐつぐつ煮えている。湯気がもうもうと立って、醤油や味噌の臭いの中に懐かしいバターの香りまで漂っていた。回り中から伸びる手に、雑炊屋のカミさんが大しゃもじで雑炊を掬い入れた丼を手際よく渡す。オヤジとおぼしき男が時おり大釜の中へバケツに入った材料をぶちこんでは、ボートのオールのようなもので掻き混ぜる。そうするとまた湯気が盛大に上がり、腹を空かせた人々を呼び寄せた。

 丼一杯の雑炊が昭和二十二、三年頃は確か五円だったと思う。それが年々値上がりして二十五年頃には十円、やがて二十円になって、朝鮮戦争が終わり世の中が落ち着き始めた三十年頃にはバラックも雑炊屋も数を減らし、いつの間にか姿を消した。

 とにかくこの雑炊がまた実に旨かった。太平洋戦争(当時は大東亜戦争と言っていた)中の水っぽい雑炊と比べると脂っこくて、ボリューム感がある。肉の塊やソーセージ、ハムの切れ端、時にはセロリやパセリ、麩のようなものまで入っていて、赤や緑や色彩も豊かであった。

 後年、つくづく考えた結果、あれは表通りの進駐軍専用レストランの厨房から出た残飯、客である米軍兵士の食べ残しをごちゃまぜにして炊いたものだと悟った。さまざまなものが豪勢に入っていたわけである。ふにゃふにゃの麩のようなものはパンの食い欠けだったらしい。

 飽食の時代の今、雑炊はむしろ贅沢な食べ物になっている。ふぐ雑炊やすっぽん雑炊、いろいろな鍋物の仕上げに食べる雑炊はとても旨い。けれども、そういうこの上なく上等な雑炊を食べていると、時々、あの焼け跡時代の雑炊の、ちょっと異臭の混じった独特の香りが、鼻の奥をつんとよぎる。

 雑炊は夏場の鮎雑炊のように、年中作られるものではあるが、やはり舌が焼けるように熱いのをふうふう吹きながら食べるのが一番旨く、体も温まるということから、冬場がもっとも似つかわしい。それで冬の季語になったのだろう。

 大昔から庶民の食べ物とされて来たにしては、江戸時代にはあまり詠まれていない。句の材料として盛んに取り上げられるようになったのは明治、大正以後である。こういう句材は人々の暮らしに少し余裕が生まれてこそ面白がられるもので、あまりにも身近な存在では身につまされてしまって句にも洒落にもならない、ということであろうか。


  雑炊の腹へこまして談笑す       高浜 虚子
  河豚雑炊あつしあつしとめでて吹く   水原秋櫻子
  雑炊もみちのくぶりにあはれなり    山口 青邨
  鴨を得て鴨雑炊の今宵かな       松本たかし
  雑炊や頬かがやきて病家族       石田 波郷
  雑炊や猫に孤独といふものなし     西東 三鬼
  雑炊や庇あらはに潮の風        石橋 秀野
  雑炊や格子戸暗きわが生家       村山 古郷
  雑炊や世をうとめども子を愛す     小林 康治
  いい仲間ゐて雑炊で締めくくる     松井 のぶ

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