山眠る(やまねむる) その2

 紅や黄に山を染めていた木々の葉が散り尽くすと、山はひっそりと静まりかえって、まるで深い眠りに落ちたように見える。雪でも降ればなおさらである。青々とした常緑樹はかえって際だつようになるのだが、彩りを添えていた落葉樹が姿を消してしまうと全体の雰囲気を一層厳しく寂しいものに見せる舞台装置のようになってしまう。

 「山眠る」という季語はそうした静寂に包まれる冬の山の姿を現したものだが、もともとは中国宋時代の詩画書「臥遊録」(呂祖謙)にある「春山淡冶にして笑ふが如し、夏山蒼翠にして滴るが如し、秋山明浄にして粧ふが如く、冬山惨淡として眠るが如し」という詩から採られたものである。この詩の作者は郭熙という絵描きの坊さんらしいが、どうやら四季それぞれの山の描き方の秘訣を説いたような感じもする。「山笑ふ」「山滴る」「山粧ふ」「山眠る」といずれもそれぞれの季節の山の様子をうまく言い表しており、いかにも俳人に親しまれるような季語である。

 これらの中で「山眠る」という季語の感じを汲み取ってみたい。まず冬の山が静かに眠っているように見えるのは確かであろう。寂しく厳しい感じもするのだが、「眠る」という言葉から受けるのは峻厳として屹立するアルプスのような高山ではなく、やはり雑木林のある低山の趣を感じる。一木一草もない岩肌を雪が蔽い冬の青空にそびえ立つ高山では、「眠る」と言うよりは傲然と睨みつけて来るような感じを受ける。

 そこへゆくと里に近い低山ともなれば、枯木は枯木で、杉や檜や椎の木はそれぞれの色を見せながら、やわらかな冬の日射しを満面に受けてのんびりしているような気分がある。山の南向き斜面のくぼみになったような所ではなおさらであろう。すっかり枯れてしまったように思える木々もやがて来る春に備えて芽をはぐくんでいる。

 この平安な感じは人々にもやすらぎを与える。これが「山眠る」の本意である。


  山眠る如く机にもたれけり   高浜虚子
  硝子戸にはんけちかわき山眠る   久保田万太郎
  山眠る大和の国に来て泊る   山口靑邨
  右左眠る山蕎麦食ひに出て   大野林火
  神の山仏の山も眠りけり   福田蓼汀
  山眠り火種のごとく妻が居り   村越化石
  肌ぬくし眠り入らむとする山の   矢島渚男
  山眠るまばゆき鳥を放ちては   山田みづえ
  狛犬に乳房が六つ山眠る   仙とよえ
  火の窯を懐にして山眠る   小木曽かね子

閉じる