焼藷とも書く。サツマイモ(甘藷)を蒸し焼きにしたもので、寛政年間(一七八九─一八〇一年)には江戸の下町に焼芋屋ができたという。以後二百年以上、庶民のおやつとして衰えぬ人気を保っている。
出始めのころは焼栗に似ているところから「八里半」という栗に少々遠慮したキャッチフレーズだったようだが、いつの間にか「栗(九里)より(四里)旨い十三里」などと威張り始めた。近ごろは小型トラックに拡声器をつけて銀座裏などを流す焼芋屋で買おうものなら、一本三百円などと栗より高い値段をふっかけられる。
戦前から昭和四十年代半ばまで、まだ一般家庭に電気冷蔵庫が行き渡っていない頃、町内にはかならず氷屋があった。冬は炭屋で夏は氷屋という店も多かったが、冬場になると店先に高さ一メートルほどの土製の焼芋窯を据えて焼芋を売った。上部の蓋を取ると、針金で吊したサツマイモがこんがりほくほく焼けている。この壷焼芋(つぼやきいも)が主流だったが、いつの間にか平らな窯に石を並べ下で薪を燃やし、熱した石で芋を焼く石焼芋が幅を利かすようになった。
昔は焼芋は江戸の食べ物だったらしく、関西ではもっぱらふかし芋だったようだが、最近では日本中に焼芋屋が出るようになった。田舎では焚火の中に芋を突っ込んで自分で簡単に焼芋が作れるから、焼芋屋など成り立つはずもなかったが、津々浦々都市化が進んでこういう商売も全国区になったようである。
サツマイモは南米原産のヒルガオ科で、コロンブスがヨーロッパに持ち帰ったのだが、ヨーロッパではジャガイモほど人気にならなかった。それが東南アジアや中国に伝わり、十七世紀になって琉球(沖縄)経由で九州にもたらされ、十八世紀初頭には関東近辺にまで広まった。日本で大人気の作物になったのである。東京近辺では薩摩から来た芋ということでサツマイモと呼んだが、九州あたりでは中国渡来ということで唐芋と言った。
何しろ強靱な植物である。春先に堆肥を積んだ藷床(いもどこ)に種藷を並べて置くと、堆肥の発酵熱で暖められ芽が生える。十五センチくらいに育った芋づるを刈り取って畑に盛り上げた畝に挿せば、後は勝手に繁って夏の終から秋口には赤い肌の太った藷がごろごろ出来る。稲や麦などが出来ないような荒れ地でもよく育つ。これは救荒作物にうってつけであると、江戸幕府の書物奉行だった青木昆陽(一六九八─一七六九)が「蕃藷考」(サツマイモの研究)という参考書を執筆、懸命になって甘藷栽培を勧めた。昆陽先生の努力の結果、関東地方でサツマイモ作りが一気に広まり、その結果として江戸の下町に焼芋屋が輩出することになった。
とにかく焼芋はその形と言い、素朴な味わいと言い、いかにも庶民的な食べ物である。特に冬場にはほかほかした暖かさが好ましい。からっ風の吹きまくる江戸の町で、焼芋を一本懐にしのばせれば身も心も温まる。下町の婦女子にこよなく愛されたのもむべなるかなである。しかし、そのあまりにも庶民的で身近過ぎる存在の故か、季語として取り上げられたのは子規以降の明治期に入ってからである。
いも屋の前に焼けるを待つ下女子守なんど 正岡 子規
甘藷焼けてゐる藁の火の美しく 高浜 虚子
焼芋やばったり風の落ちし月 久保田万太郎
焼芋の懐ぬくめ恋めきぬ 阿波野青畝
鉤吊りに焼藷菩薩壷を出づ 皆吉 爽雨
焼藷をぽっかりと割る何か生れむ 能村登四郎
煙り先行す石焼藷の車 加倉井秋を
さびしき時石まぜ合はせ焼藷屋 林 翔
大川に残り火捨つる焼芋屋 渡辺 大年
焼藷を英字新聞もて包む 久米 恵子