氷柱(つらら)

 水の雫が凍って棒状に垂れ下がったものである。多くの場合、屋根に降り積もった雪に屋内の暖かさが伝わって少しずつ溶け、軒先からぽたぽた落ちる時、外気温が零度以下だと瞬間的に凍ってしまい、次の滴りも凍り、同じことが繰り返されて、しまいには氷柱となってぶら下がる。厳寒期には谷川の水しぶきが岩について凍り美しい氷柱ができ、滝の周辺が凍って大きなクリスタルのカーテンを引いたような列状の氷柱ができることもある。滝全体が凍ってしまったのは特に「氷瀑」と呼んでいる。また寒気の厳しい地方や山岳地帯では、樹木にも氷柱ができることがある。

 昔は東京近辺でも氷柱はよく見られた真冬の一景物で、子供たちが面白がって折り取り、チャンバラごっこをしたりしゃぶったりしたものである。しかし近ごろは温暖化のせいであろうか、また住宅の作りが変って軒端から雫など落ちないようになったからか、首都圏の町場ではほとんど見られなくなった。東北、北陸などではさすがに今でもごく普通にできるが、それでも以前のように軒から地面まで太く長く一本の氷の柱ができるようなことは稀のようである。

 昔は「垂氷(たるひ)」と呼んでいたようである。「枕草子」302段に垂氷が出て来る。とても美しい文章で、平安時代の文化人がつららのできるような寒い夜半の情趣を愛でる様子がよく分かるので、少々長くなるが引用してみる。「日ごろ降りつる雪の今日はやみて、風などいたう吹きつれば、垂氷いみじうしだり、地などこそむらむら白き所がちなれ、屋の上は、ただおしなべて白きに、あやしき賎の屋も雪にみな面隠しして、有明の月のくまなきに、いみじうをかし。白銀などを葺きたるやうなるに、水晶の瀧などいはましやうにて、長く短く、ことさらにかけわたしたると見えて、いふにもあまりてめでたきに、(以下略)」という次第である。いかにも寒そうだが、雪によってみすぼらしい家々も汚いものもすっかり隠され、白銀の世界を夜明けの月が皓々と照らし出して実に美しい。水晶の瀧とでも形容すべきような氷柱が長く短く垂れ下がって(しだり)いるのが、得も言われぬ光景であると絶賛している。

 暖房も十分でなく、防寒衣料にもたいしたものが無かった時代、冬の寒さをやり過ごすことはさぞかし大変だったに違いない。屋内に閉じこもり、襖や几帳をめぐらして、火桶を抱きかかえるようにして暮らした。それでも都の人たちは雪が大好きだったらしく、雪が降ると外へ出て雪だるまのようなものをこしらえたり、お盆に盛って雪兎を作ったり、雪見酒を酌み交わしたりと、大いに楽しんだ。雪が降った後に出現する氷柱もまた愛づるべき対象であった。

 江戸時代、俳諧の世界でも氷柱は恰好の素材になった。『樋の口に封をつけたるつらら哉』(意敬)、『軒の雨名残久しき垂氷哉』(宗因)などの古いところから、『朝日かげさすや氷柱の水車』(鬼貫)、『数十丈見あぐれば岩のつらゝかな』(闌更)などの素晴らしい句も生まれた。氷柱は日の光が当ってきらきらと輝く美しさと共に、その形の面白さから、何とも言えない明るさ、楽しさも感じる。一茶もそんな気分で『御仏の御鼻の先へつららかな』と詠んでいる。

 ただし、そういったのんびりした気分で氷柱を眺めていられるのも、比較的暖かい都会住いであればこそなのかもしれない。冬中雪に埋もれ、氷柱も太く長くなるばかりという状態では、山口青邨が詠んでいるように『みちのくの町はいぶせき氷柱かな』と、うっとうしいものとして疎まれるようにもなる。


  楯をなす大き氷柱も飛騨山家   鈴鹿野風呂
  遠き家の氷柱落ちたる光かな   高浜年尾
  夕焼けてなほそだつなる氷柱かな   中村汀女
  人の世の往き来映れる氷柱かな   伊藤柏翠
  崖氷柱薙ぎ金石の響きあり   福田蓼汀
  茶を飲めば眼鏡くもりて大氷柱   細見綾子
  宿までは氷柱明りの峠道   斉藤夏風
  ロシア見ゆ洋酒につらら折り入れて   平井さち子
  軒氷柱くらしの音のなきごとく   長谷川富佐子
  十能の火のめでたさよ氷柱宿   草間時彦

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