年惜しむ(としをしむ)

 残り少なくなった今年を振り返って、しみじみと思いにふける風情である。人間誰しも「今年は充実した年だった」と思うよりは、「たいした事もやらなかったなあ」と思うことの方が多いようである。

 十二月も半ばを過ぎると、いよいよ押し詰まった感じがして、いろいろな思いが駆け巡る。外は北風が冷たい。家の中の掃除も神さん任せ、これは下手に手を出すと夫婦喧嘩のもとになるから黙って自室に籠もる。とりたてて何をするでもないのだが、気ぜわしい。そのような時、昔のあれこれが走馬燈のように脳の中を駆け巡る。行く末にはもう大した希望が持てそうにないとしても、来し方の思い出は多々ある。ページの端がめくれた古雑誌をめくるように、一つ一つ昔の風景を頭の中に描き出していく。

 これは古稀の声を聞くころ以降の人たちの年の暮れの有り様だが、若い人たちはそんなことはない。年内に出来る限り駆けずり回って、年末年始休暇のプランを心ゆくまで楽しもうと、むしろ前途に夢と希望を描きながらの「年惜しむ」ということになろう。寸暇を惜しんでの賀状書きにも「新年こそは」と決意表明を書き添えたりもするのである。

 この季語は昔は「冬惜しむ」と同義で、大晦日のことを言ったものであるという。もう間もなく除夜の鐘が鳴るという頃合いの、物思いを込めた季語であった。陰暦では大晦日はその名の通り、一年の終りであると同時に冬の終りでもあった。一夜明けて元旦となれば春である。そして人は一つ歳をとる。毎年、大晦日が来るたびに、ああこれで歳をとる、だんだん老けてゆく、という切なさもある。宝暦から天明年間(一七五〇─一七八〇年代)に活躍した名古屋の俳人、加藤暁台には『落る歯のはじめて年の惜しきかな』という句があるが、さしづめこのような感懐であろう。

 太陽暦の今では、まして満年齢で数えるようになった戦後は、「年惜しむ」にこのような意味合いを持たせる人はいなくなった。十二月半ば頃から末にかけて、いよいよ今年も終るなあというちょっとした感傷と、一年を振り返る気持を込めた言葉として用いることが多い。


  年惜しむ心うれひに変りけり    高浜 虚子
  鉄瓶の蓋切りて年惜しみけり    久保田万太郎
  年惜しむたそがれ顔のむきあへり  松村 蒼石
  たれかれに便り書かばや年惜しむ  石橋 秀野
  年惜しむ程のよきことなかりけり  松崎鉄之介
  沈みては浮きては海鵜年惜しむ   東海林照女
  年惜しむひとりに墳墓あたたかく  石原 舟月
  胸の中まで日が射して年惜しむ   深見けん二
  年惜しむ濤の白さを目に余し    岡本  眸
  まこと一病息災なりし年惜しむ   久永雁水荘

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