立冬を過ぎる頃から急に日暮の早くなることを感じる。12月に入ると、東京近辺でも午後4時を回ると周囲が暗くなって来る。冬至が短日の極まる日であり、その頃は日の出から日の入りまでの日中時間は10時間を切ってしまう。 陽の光も弱々しくなって心細い。寒さも増して来る。「日短か」「日つまる」「暮早し」などとも言い、冬の日を言う季語になっている。
日が短くなれば当然夜が長くなるわけだが、俳句で「夜長」と言うと秋のこととされている。夜長が秋の季語で、短日が冬の季語というのは理屈が通らないが、俳句は人の気持を言う詩だからこういうことになる。夏はすぐに夜が明けてしまう気がするから「短夜」という夏の季語が生まれ、それに対して、涼しくなったと思ったら何だか急に夜が長くなったと感じるところから「夜長」は秋の季節感を伝える秋の季語になった。一方、頼りないお日様が照っていると思ったら早くも暮れてしまうという心細さから「短日」「暮早し」が冬とされるようになった。ちなみに似たような言葉で春を表すのが「日永」である。これも理屈からすれば夏至が最も日中時間が長く、日永は本来夏の季語とされるべきだが、やはり春になって日が延びて来たなあという感じを尊んで春の季語になった。
このように季語を科学的知識や現代の常識で云々すると辻褄の合わない点が無数に出て来る。例えば「蝶」は春の季語である。しかし蝶は春よりもむしろ夏の方が活発に飛び回り、秋になっても盛んに飛んでいる。時には越冬する蝶もいる。これを「春のもの」と固定するのはおかしいという意見が出る。確かに理屈ではその通りなのだが、やはり蝶は春のものなのである。陽気がよくなって、菜の花も咲き始めたところに蝶が舞い始める。ああ春だなあと感じる。この感じを背負ったものが「蝶」という季語なのだ。だから季語の「蝶」は最早現実の蝶ではなく、うららかな春の雰囲気を伝える詩語としての「蝶」なのである。
季語として取り立てられた事物は、「それ自体」を意味するのはもちろんだが、それと同時に季節感を伝える代表選手としての働きを担っている。「蝶」という季語は蝶そのものを意味すると同時に、蝶の出て来る季節の様子をすべて担っているのだ。季語すなわち「季のことば」と言われる所以である。だからこそ、そういう季語を一句の中に複数混在させる「季重なり」が嫌われることにもなる。
話が大分広がってしまったが、「短日」にもそうした「冬だなあ」という感じが込められている。蕭条たる枯野の落日の早さにわびしさを感じることもあろうし、迫り来る年末に向けてまだし残した事が山積しているというあせりの気持もあろう、あるいは終末ということを考えることもあるかも知れない。そんな意味合いまで含めるかどうかは詠み手の置かれた環境にもよるが、「短日」という一見素っ気無い季語にはそうした雰囲気までまとわりついている。
日短かやかせぐに追ひつく貧乏神 小林一茶
短日の時計の午後のふり子かな 飯田蛇笏
短日やにはかに落ちし波の音 久保田万太郎
短日の壁にもたせて箒あり 皿井旭川
短日や汝がつけし煙草の火 中村汀女
ちちははの齡越えて日々短しや 大野林火
少しづゝ用事が残り日短 下田実花
短日やたのみもかけずのむくすり 中村伸郎
短日の勾玉ほどの日差かな 新谷ひろし
振込機に命ぜられをり日短か 江中真弓