焚火は郷愁をかき立てる。幼い頃の焚火にまつわる思い出は誰にでも二つや三つはあるだろう。さらに、焚火にはもっと根源的な、人の心を強く引きつける力があるようだ。我々の遠い遠い祖先が初めて火というものを手なづけて、暖をとり、煮炊きし、護身のために用い始めて以来の火の記憶が、骨の髄に染み透っているからかも知れない。
火というものは大きく燃え上がるととても怖いけれど、適当に案配すればとても頼りになるものだ。そんなところがあるから、焚火は子供に人気があるのではなかろうか。暖かくて気持が良いからというばかりではない。たとえ芋など入っていなくても、路地裏や公園で焚火があると、わっと寄って来る。めらめらと燃え上がる炎には玄妙不可思議な魅力があって、子供にはそれが感じ取れるのであろう。もちろん大人だって引きつけられる。秋葉の火祭や二月堂の御水取りを引き合いに出すまでもなく、焚火や篝火と宗教は切っても切れない縁がある。
そういう焚火が、今日の都会では出来なくなっているのがなんとも淋しい。町内会長をやっていた関係で地元の消防署長と話す機会があり、「他所に燃え移る心配のない庭で、なぜ焚火をしちゃいけないんですか」と聞いてみた。すると「横浜市では法律や条令で焚火禁止とはしていません、あくまでも防火に注意して、前もって消防署に焚火することを知らせてくれれば問題ありません。ただ煙が広がるのでご近所から消防署に文句を言って来られる場合があるので、なるべくご遠慮いただきたいのです。最近はダイオキシンなどいろいろうるさいもんですから」ということであった。なるほど町中の落葉にはタバコの吸殻や菓子類の包装紙など石油化学製品が混じっているし、木切れには化学塗料が塗ってあったりするから、燃やすとダイオキシンなどの有毒ガスが発生する。それで焚火はだめという意識が広まったようである。正月十五日にはどこの神社でも注連飾りや破魔矢などを焚く左義長(どんど焼き)をやったものだが、これも町中では禁止され、東京都心部ではわずかに永田町の日枝神社だけになってしまった。情けない世の中になったものである。
昔は焚火は至るところで見られた。農夫も漁民も樵も、午前の休憩、昼食、午後の一服をとるための場所には焚火を欠かさず、仲間と相寄ってくつろいだ。町中の普請場では木っ端を燃やし、大工や左官が暖をとった。道路工事の現場では姐さん被りしたおばさんたちが「オトチャンのためならエーンヤコーラ、も一つおまけにエンヤコーラ」と唄いながら、重い槌につけた綱を八方から引きながら地形(じぎょう、地固めのこと)をしていたが、その傍らには焚火がちろちろと燃え、真っ黒に煤けた薬罐がしゅうしゅうと湯気をたてていた。
幼い頃、どういうわけかこのヨイトマケが非常に好きで、毎日現場に出かけては焚火の傍らにしゃがみこんで眺めた。真冬というのに汗ばみながら綱を引いて重い槌をずしんずしんと地面に叩き付ける威勢のいいおばさんたちを見つめていた。たまたま生家が横浜の中心部に近い丘の上にあり、植物園を併設した園芸会社をやっていた。戦争が激しくなって家業は開店休業状態になり、敷地内のそこかしこにだだ広い空地が生じた。それに目をつけた軍が用地提供を要請してきた。米兵捕虜収容所と横浜港近辺の三菱重工や日本鋼管の造船所に通う職工の寮を建設するという。すなわち、すぐ近所に連日ヨイトマケの出番となる舞台が生まれたわけである。
ヨイトマケのおばさんたちの多くは、亭主が戦地に出征している銃後の婦人たちであった。そういう人たちにしてみれば五歳になるやならずの坊主は可愛く映ったのであろうか、休み時間になると焚火に暖めておいたドカベンから得体の知れない食べ物をとってくれたり、温かいお茶を飲ませてくれたりした。そんな楽しい場面に突然おスミが現れ、「またこんな所に」とぐいと腕をつかんで引っ立てる。だだをこねると大柄で太ったおスミは有無を言わさず抱きかかえてしまう。ぷよぷよした胸に押しつけられて、暴れたってもうどうにもならない。「ここに来てはいけないとお母様に言われたでしょ。坊ちゃんがここに来たことがわかると私が叱られるの」と言う。子供の私にはわかろうはずはないのだが、ヨイトマケの唄はかなり卑猥な文句が多いらしい。
おスミというのは厚木から我が家に住み込みで来ていて最後まで残っていた女中、いまの言葉で言えばお手伝いさんである。ヨイトマケ現場から私を連れ戻す毎日を繰り返しながら、その二、三年後、昭和十九年夏だったか、暇を取って実家に戻った。許婚者の出征が決まって急遽、結婚することになったらしい。
翌二十年正月、久しぶりにおスミが訪ねて来てくれた。私は数えの八歳になっており、子供用に短く作ったゲートルなど巻いて、いっぱしの少国民を気取っていた。
「おみやげ持ってまいりましたよ」。ボール紙製の桃太郎鬼退治の射的だった。厚紙でできた鉄砲はゴムの弾力で紙弾を飛ばすようになっており、的は鬼畜米英と書かれた赤鬼青鬼である。それよりももっと嬉しかったのはピーナッツを紅白の砂糖でくるんだ源氏豆。横浜市内の菓子屋にはとうの昔に姿を消していたが、厚木在あたりにはまだ残っていたのだろう。甘いものが不足していた時だから、世の中にこんなうまいものがあったのかと大事にしゃぶった。
それに加えておスミは実家で取れた特産の薩摩芋を山ほど背負って来てくれた。いくら産地とは言え、端境期なのだから、芽を出さずに取って置いた大事な種芋だったのかも知れない。「焼いてさしあげましょうね」と言いながら、裏庭に木切れや木の葉、藁屑を集めて手早く焚火を燃やし、焼芋を作ってくれた。めらめらと燃え上がってはぽっと消え、また燃え上がる炎が、今でも脳味噌の奥に焼き付いている。
焚火が俳句に詠まれ出したのは近代になってからのことである。江戸時代には焚火を主役とした句はほとんど見当たらない。もちろん和歌にもうたわれなかった。あまりにもありふれたもので、句にも歌にもならなかったのであろう。そう言えば、昔の日本家屋は屋内の土間や座敷に大きな囲炉裏があって、そこに薪をくべて燃やしていた。屋内でも焚火をやっていたわけで、実際に江戸時代まではこれも焚火と呼んでいたようである。
明治に入って、都会では囲炉裏のあるような家が少なくなり、焚火はもっぱら屋外での落葉焚きになった。「山茶花さざんか咲いた道、焚火だたきびだ落葉焚き」である。これが冬の都会の風物詩として定着するに及んで、にわかに俳人たちの郷愁を呼び覚ますことになった。
焚火かなし消えんとすれば育てられ 高浜 虚子
一人退き二人よりくる焚火かな 久保田万太郎
とっぷりと後ろ暮れゐし焚火かな 松本たかし
火になりて松毬見ゆる焚火かな 吉岡禅寺洞
尻あぶる人山を見る焚火かな 野村 喜舟
焚火には即かず離れずして遊ぶ 後藤 夜半
日雇の焚火ぼうぼう崖こがす 西東 三鬼
わめきつゝ海女は焚火に駆け寄りぬ 稲垣 雪村
潮吹いて貝焼かれをり浜焚火 加藤 憲曠
色々のてのひらのある焚火かな 塩田 博久