煤払(すすはらい)

 江戸時代、12月13日が御城の煤払いの日と定められていた。寺社も町家もそれに倣い、一斉にこの1年間に溜まった屋内のススや埃を払った。その大掃除に使うため、真竹や篠竹を切った煤竹を担いで町内を売り歩く煤竹売が出た。

 この日がいわば「歳末」のスタートである。この日から新年を迎えるためのいろいろな用意(年用意)が始まり、商人は書き入れ時というわけで販売に精を出し、1年の勘定の精算に駆けずり回る。武家も町人も年用意の買い物をする一方で、ツケを払うための金策に頭を痛める。とにかく誰もが忙しそうにして、町中が活気づく。

 現実的にも「煤払」は欠かすことのできない行事であった。なにしろ台所での煮炊きはすべて薪を焚き、照明は菜種油の行灯、暖房は火鉢や行火というわけだから、どうしたって煙が出て、屋内には否応無しに煤が溜まる。かまど(へっつい)の上の梁などには蜘蛛の巣かなにかにべっとりと煤がこびりついた紐状のものがぶら下がったりしている。毎日の掃除では手が回らない欄間などにも煤埃が溜まっている。神棚の奥だって同様だ。そこで1年に1度、煤竹で天井も壁も払い、煤埃を落し、さっぱりとする。こうして新玉の年を迎えるのだ。

 煤払で思い出されるのは講談で有名な赤穂義士外伝、大高源吾と俳人其角との掛け合いである。四十七士の一人大高源吾は茶の湯を山田宗徧に、俳諧を水間沾徳について学ぶ教養人で、当時一世を風靡していた榎本(宝井)其角とも昵懇だった。討入りの前日、煤竹売りに身をやつし本所の吉良邸の様子を探る道すがら、両国橋の上で其角とばったり出会った。「年の瀬や水の流れと人の身は」と連句の長句で其角に問い掛けられた源吾は、咄嗟に「明日待たるるその宝船」と短句を付けたという。元禄15年(1703年)12月13日、江戸の町中が大掃除という日であった。

 とにかく昔の煤払いは家中もうもうとなる物凄いものだったようである。年寄や子供や病人は小部屋に閉じこめられた。これが「煤籠り」という季語になっている。またご隠居や役立たずの旦那衆が大掃除が済むまで他所に避難するのを「煤逃げ」と言った。煤払が終わって煤だらけになった顔や身体を洗い清めるために入る風呂が「煤湯」。さっぱりとしたところで家内一同、使用人にいたるまで酒や煤掃き粥などが振る舞われた。

 キッチンはガスレンジや電磁調理器、暖房はエアコン、照明はもちろん電気ということになって、今の日本の家庭では煙が立ち込め煤が出るということがなくなった。大騒ぎで家中をひっくり返すような煤払や大掃除の必要もなくなっている。しかし、やはり正月気分を味わいたがる日本人の習性は抜け切らず、12月も半ばを過ぎるとあちこちで大掃除が始まる。煤払の気分は若い世代にもなんとなく伝わっているようにも思える。


  旅寝して見しやうき世の煤払   松尾芭蕉
  煤払うて寝た夜は女房めづらしや   宝井其角
  煤掃きやなにを一つも捨てられず   各務支考
  我が家は団扇で煤をはらひけり   小林一茶
  煤掃の音はたとやむ昼餉かな   正岡子規
  煤掃や二階に見ゆる富士の山   松根東洋城
  煤埃水になじまず流れけり   鈴鹿野風呂
  かしこみて煤を祓ふと奏しける   後藤夜半
  煤払ふ巫女に重たき竹の竿   森田君子
  煤逃げをするにネクタイ締めにけり   森田公司

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