障子(しょうじ)

 冷暖房が行き届いた近ごろの日本家屋では、夏でも冬でも障子をはめたままにしてあることが多い。障子は最早、目隠しか家屋のアクセサリーとしての存在価値しか無くなっている。そのせいか、なぜ障子が冬の季語なのかと問われて、正確な答えを出せる人が少なくなっている。

 細い木製の桟に紙や薄絹を貼った障子がこの世に現れたのは平安時代の末期だという。しかし、これが普及するのは、和紙の生産技術が進歩した鎌倉時代に入ってからのことであった。そして庶民の家でも使われるようになったのは、ずっと遅れて江戸時代の中期、世の中がすっかり落着いてからのことである。

 この障子のことを平安、鎌倉の昔には「明障子(あかりしょうじ)」と呼んでいた。その当時は単に「障子」と言えば、戸や衝立や襖を意味した。屋内と外部を隔てる建具は板戸や蔀戸(しとみど)などの戸であり、屋内の部屋や廊下を仕切るものは襖や衝立であった。戸や襖はたててしまえば寒い外気や騒音をかなり遮断できるが、明りも遮ってしまう。夏場はこうした遮蔽物を取り外して屋内に光りが射し込むようにすれば良いわけだが、冬はそういうわけにはいかない。寒さ防ぎに戸をたて、衝立や襖で部屋を取り囲むと、昼間から真っ暗になってしまう。そこで先人は知恵をしぼった末に、襖の骨組の上に絹布や和紙を貼る「明障子」を発明した。

 寒い風は通さずに、太陽の光りをある程度は通す。板ガラスなどというものが無かった時代には、和紙を透して射し込む光でも十分明るかったのである。明障子のおかげで、暗く鬱々とした冬の日々がどんなに明るくなったことか。この恵みは無上の喜びであったに違いない。もちろん夏が近づいて暖かくなると明障子は大切にしまわれ、冬が来る頃、破れなどを丁寧に繕ってまた嵌め込まれた。すなわち障子は「冬にかけがえの無いもの」だったのである。

 しかし、絹布はもちろん、紙も非常に高価なものだったから、江戸時代初期までは庶民の家庭で明障子を用いることなどは到底無理だった。やがて江戸も中期になると、全国各地で紙の原料となる楮(こうぞ)、三椏(みつまた)の生産が盛んになり、紙漉き技術も進歩した。美濃、周防、陸奥、那須、広島、土佐などの有名産地ばかりでなく、至るところで農家の副業としての紙漉きが行われるようになった。こうして障子紙の生産は飛躍的に増加し、町家や農家にもだんだんと障子が普及するようになった。ただし、庶民の家屋の入口に腰高障子がはまり、部屋の間仕切りに障子がちゃんと入れられるようになったのは、明治時代になってからのことである。

 夏になると障子は納戸や物置に仕舞われる。はずした後があまりにもあけすけになってしまうから、障子紙のかわりに葦や竹ひごをはめた夏用の障子、葭戸や簀戸(簾戸)をはめた。秋風が立つと、しまっておいた障子を出して洗ったり、張り替えるなどして、葭戸と入れ換えた。冬を迎える準備である。こうした年中行事が昭和四十年代までは続いていたのである。こんなところから「葭戸しまふ」「簀戸しまふ」「障子洗ふ」「障子貼る」などは秋の季語となり、「障子」そのものは冬の季語になった。

 障子を透かして冬の太陽が室内に柔らかく射し込む。火鉢を傍らに、炬燵に入って昼間から熱燗をちびりちびりやり、時々障子を薄目に開けて冬枯れの庭を眺めやって句を案ずる。冬の日の真骨頂である。明治から昭和の初めにかけて、真ん中にガラスを嵌め込んだ雪見障子などというのも普及した。

 ところが今や、住宅はアルミサッシの一枚ガラスの戸に囲まれ、その内側はカーテン、エアコン完全装備というのが一般的で、障子の出番が無くなってしまった。現代住宅はなるほど雨戸や障子とはくらべものにならない機密度の高さで、暖房効率も良く、明るく快適ではある。しかしどうも風情が無い。名句の生まれる余地がそれだけ狭められたようでもある。


  これやこのにしめの色の障子かな     小杉 余子
  柔かき障子明りに観世音         富安 風生
  しづかなるいちにちなりし障子かな    長谷川素逝
  妻が留守の障子ぽっとり暮れたり     尾崎 放哉
  道はさむ障子よろしき馬籠かな      森田  峠
  午後の日の障子明りとなりにけり     岡安 仁義
  障子しめてことさらさむき瀬音かな    高橋  潤
  目覚めての不安たかぶる白障子      田中みち代
  奥能登の単線ひびく障子かな       大木さつき
  四五人のみしみし歩く障子かな      岸本 尚毅

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