立冬(りっとう)

 二十四節気の一つで、太陽が黄経二二五度の点を通過する時点を言う。新暦では十一月八日頃になる。暦の上ではこの日から「冬」である。「りっとう」という言葉の響きが硬いせいか、俳句では「冬立つ」「冬に入る」「冬来たる」と用いられることも多い。また立冬の朝を「今朝の冬」と言うこともある。

 暦の上では冬と言っても、十一月上旬はまだ秋の気分が濃厚である。空は抜けるように青く、秋晴れの日が続く。しかし、朝晩はさすがに冷え込むようになり、コートを羽織ってもいいような気分になる。そろそろ木枯らしが吹き始め、時雨がぱらつき、周りの景色も何となくうら枯れて、紅葉の便りもしきりである。駅には早くもスキー旅行のポスターが貼り出される。

 「いよいよ冬だ」という緊張感が、立冬という言葉にはあるようだ。家の中も、ビルも電車もエアコンが行き渡って、一年中快適温度に浸っている現代人は、どうしても季節の変化に鈍感になる。しかし、四季の気温変化を直接肌身に感じた昔の人は、立冬という言葉を聞いただけで、身が引き締まる思いを抱いたに違いない。「冬に入る」「冬来たる」という言葉も、現代人の我々が抱く思いとは比べ物にならないほど切実な感じを伴ったものであっただろう。

 そのせいか、立冬近辺の初冬の頃合いを表す季語には「冬浅し」「冬めく」「冬ざれ」と、それぞれ微妙にニュアンスの異なるものがいくつもある。

 「冬浅し」というのは、冬になったとは言え、まだまだ秋の気分を残しているという感じである。「冬めく」は時期的にはほぼ同じで、立冬の後間も無くの頃を言うのだが、これは現実に肌で寒さを感じたり、あたりの景色が何となくすがれ始めたのを見て「やはり冬らしくなったな」という気分である。「冬ざれ」は四囲の景色がすっかり冬のたたずまいを見せ、寂しく心細い感じになる、といったところである。このように、昔の人たちは同じ初冬の気分を詠むにも、きめ細かく言葉を使い分けていた。

 ともすれば一年をめりはりなく過ごしてしまいがちな我々が、にわか勉強でこうした言葉の使い分けをするのは難しい。とは言っても、刻々変化する周囲の景色や事物を見回しながら、それを表すにはどんな言葉がもっともふさわしいかを考えるのは楽しい。そんなことをしても大した役に立ちはしないが、それこそが俳句に取りつかれた人間の心意気というものである。


  柴垣を透く日も冬に入りけり      久保田万太郎
  立冬や窓博って透く鵯の羽根      石田 波郷
  冬来る眼をみひらきて思ふこと     三橋 鷹女
  堂塔の影を正して冬に入る       中川 宋淵
  音たてて立冬の道掃かれけり      岸田 稚魚
  冬となる溝板太き釘うたれ       菖蒲 あや
  地ごんにゃく黒く煮メめて冬が来る   野澤 節子
  心電図音なくとられ冬立つ日      藤岡きみゑ
  津軽はや荒ぶる日なり冬に入る     三上  孝
  敷網に立冬の波とがりくる       川崎 俊子

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