おでん

 もともとは豆腐を2本の串に刺して味噌を塗って火に炙ったものを「味噌田楽」と言い、江戸の初期からあった食べ物である。その形が田植え時に行われる田楽舞の姿に似ているところから「でんがく」と呼ばれた。田楽舞は踊り手が長い足駄のようなものを履いて舞いを舞うのだが、串刺しにした豆腐がまさにそれを思い出させるというのである。

 そのうちに豆腐ばかりでなく、コンニャクも田楽の材料になり、さらに里芋や茄子、鮎、ウグイなどの川魚も田楽になった。魚を用いたものは魚の田楽というので「魚田(ぎょでん)」とも呼ばれる。

 江戸は開幕以来人口がどんどん増加し、特に中期以降は埋立て工事などの労働力として、主として関東北部の上州、野州、さらにもっと奥の東北地方からの流入人口が多くなった。それにつれて外食産業が盛んになり、今日のマクドナルドや吉野家の原型のような一膳飯屋や屋台が続々と生まれた。それと共に、田楽も味噌を塗って炙るような悠長なことをせずに、串に刺した材料を濃い煮汁に突っ込んで煮込む「煮込み田楽」が出てきた。その呼び方も「煮込みの田楽」が「煮込みおでん」になり、やがて単に「おでん」という呼称が定着し、縄のれんの定番メニューになった。

 こうなると煮込みおでん用の、素材別に仕切りのある特別の鍋ができて、中味もいろいろ工夫され、ついには本家本元の味噌田楽を押しのけて主流になった。こうして幕末の嘉永・安政年間(1848─54)には、「おでん」は江戸の庶民の食べ物として完全に根をおろした。

 明治になって「おでん」は爆発的に流行する。幕末維新を経て日本の首都になった江戸の町には、地方からさまざまな人間が入り込む。手っ取り早い煮込みおでんが立ち食いのファストフードとしてもてはやされる地合があった。江戸時代、寺社の門前茶店などで親しまれた「味噌田楽に菜飯」が「おでんに茶飯」となり、人気メニューになった。

 とは言っても、当時の「おでん」はあくまでも下賎な食物とされ、中流以上の家庭に入り込むまでには至らなかった。ところが明治中期におでんが関西に移入され、関西風の薄口醤油で仕立てられ俄然人気を呼んだ。大阪ではちゃんとした料理屋までがこれを取り入れ、座敷で供する「お座敷おでん」というものも生まれた。しかし、この頃はまだ、関西地方では相変わらず味噌田楽や魚田が幅を利かせていたから、この新顔料理は新しがり屋が好むゲテモノ料理という位置づけだったようである。だからこそ「野蛮な関東から来た煮込み」という意味で「関東煮(かんとうだき、関西人は短くカントダキと発音したりする)」と呼ばれ、これが今日に至るまでおでんの関西風名称になった。

 関西で改良されて上品になったおでんが、関東大震災以後、東京に里帰りし、その良さが見直されて一挙に東京近辺の中流家庭にまで入り込むようになった。ただし東京周辺では濃口醤油で仕立てられたため、味も色も濃厚な「江戸前の改良型おでん」が主流だった。そして、このタイプのおでんが東京から地方へ伝わり、それぞれの地元で特産のタネを入れるなどして、全国各地でおでん文化が花を咲かせた。

 おでんは第2次大戦後も改良が続けられた。中味が多様になるとともにタネの質が良くなり、味も現代人好みの上品な薄味が主流になってますます流行し、今では冬の代表的な料理になっている。またフランスの家庭料理であるポトフなどの良さも取り入れた「洋風おでん」も登場するようになった。伝統的なおでん屋がじゃがいもやソーセージ、トマトなどなど、新しい具を工夫して、おでんは日進月歩で変ってゆく。さらに近年、おでんはコンビニにも登場、若者がハンバーガーを買う気分でおでんを求めるようにもなっている。

 このようにおでんは江戸時代後期から存在したとはいえ、下賎な食べ物という印象が強過ぎたせいか、季語には取り立てられず、例句が見当たらない。さかんに詠まれるようになったのは明治も末以降のようである。その庶民性が好まれ、市井の暮しの哀感を詠んだ佳句も多いが、うっかりすると類型化に陥りやすい。


  戸の隙におでんの湯気の曲がり消え   高浜虚子
  おでん酒あしもとの闇濃かりけり   久米三汀
  亭主健在おでんの酒のよいお燗   富安風生
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  人情のほろびしおでん煮えにけり   久保田万太郎
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  提灯の三つに一字づつおでん   下田実花
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