納豆は日本独特の食品である。蛋白質が吸収されやすい形になっており、ビタミン類も豊富に含み、整腸作用ももった理想的食品と言われている。しかし特有の臭いを持ち、ねばねばと糸を引く様子はいかにも腐敗した豆そのものであり、ほとんどの外国人は顔をそむける。外国人ばかりではない、日本人でも関西以西の人は「東京の人間はよくあんなものを食うな」などと言う。
やわらかく煮た(あるいは蒸した)大豆を藁苞に入れて40℃くらいに保つと半日程度で藁に巣くっている枯草菌の一種の納豆菌の作用で発酵し、特有の匂いと粘り気を持つ納豆が出来る。盛んに糸を引くから「糸引き納豆」とも呼ばれた。昭和に入る頃には納豆菌が分離・培養されるようになり、かさばる藁苞のかわりに経木を三角形にした容器の中に茹で大豆を入れて納豆菌を注入して作った三角納豆が盛んになった。最近では経木も手数がかかるから、発泡スチロールの小さな容器に大豆を入れてこしらえた納豆がもっぱらである。
現在は納豆と言えばこの糸を引く納豆を指すが、もともとは大徳寺納豆とか寺納豆、浜納豆と呼ばれる黒い兎の糞のようなものを言った。これは奈良時代に中国から伝わった保存食品で、主に寺院で作られ、坊さんの副食品兼調味料だったものが一般に広まったものである。蒸した大豆に煎った小麦粉(あるいは大麦粉の麦こがし)をまぶし、麹を加えて発酵させる。これを塩水に漬けて重石を乗せて熟成してから乾し上げる。
中国語ではこれを「豉」と言い、我国でも当初はそう呼ばれたり書かれたりしていたらしい。そのうちに、恐らく鎌倉室町時代、自然発生的に寺の納所などで生れた糸引き納豆がおかずとしてもてはやされるようになり、本来の豉の方は寺納豆などと呼ばれて特別扱いされるようになった。「豉」は今でも日本各地で作られ、佃煮の親戚のようにして土産物になったりしている一方、グルメブームの波に乗って、本場中国の「豆豉」が本格中華料理の調味料として売られるようになった。
今日のような糸引き納豆がいつごろ発生して、関東人の副食物として定着したのかはっきりしない。恐らく鎌倉時代の末期か戦国時代だろうと言われている。大豆そのものは弥生時代に中国からもたらされているし、大豆は湿気と適度な温度を加えればすぐに発酵するから、大昔の日本人も寺納豆のようなものや場合によっては糸を引くようになったものを食べていたに違いない。ただし、意識的に糸引き納豆が作られるようになったのは比較的新しいようである。
羽柴秀吉が糧秣係の時、俵詰めの大豆を雨に当てて腐らしてしまったものを無理に食べたところ、以外に旨いことを発見し、それから納豆が広まったという話もある。秀吉が糸引き納豆の発見者であるかどうかはさておき、案外そうした大失敗が因で生まれ、流行し始めた食べ物かも知れない。秀吉は尾張の出身、納豆を食べる食べないの境界線がちょうどこの辺りであったことも面白い。今では西の人の中にも納豆の味を知る人が増え、関西や九州でも納豆が売られるようになった。
関西地方以西では納豆が好まれないということは通説になっているが、蕪村には「朝霜や室の揚屋の納豆汁」や「入道のよゝとまゐりぬ納豆汁」「朱にめづる根来折敷や納豆汁」という句がある。蕪村は架空の物語の俳句を作っているから、うっかりしたことは言えないが、室とは兵庫県室の津であり、そこの色町の揚屋で納豆汁が供されていたことを詠んでいる。蕪村自身は若い頃江戸に暮したことがあるから当然納豆を知っていただろうが、これらの句からは、関西でも納豆が食べられていたことになる。あのどろどろねばねばした納豆をご飯に掛けて食べるやり方はしなかったが、冬場に汁に拵えたものは僧家から伝わって古くから食べられていたのではないか。
納豆という食物は知らなければ別にどうということもないものである。しかし一旦食べ慣れてしまうと癖になり、これが食べられない状況に置かれると無性に恋しくなる。
1970年代の初め3年余りチェコのプラハに住んでいたことがある。当時のチェコはもちろん共産党政権の支配する国で、ソ連の膝下に組み敷かれていた。日用品の供給も不足がちな中で、町の食料品店の陳列棚には米と大豆だけがいつもあった。ソ連の命令によってチェコは、アメリカと戦っている北ベトナムに武器弾薬から工業製品をせっせと送っていた。カネの無い北ベトナムが見返りに送って来るのが大豆と米だったのだが、チェコ人は米と大豆はほとんど食べない。そこで万事品不足の商店にもこの二つは常に残っていた。
米は日本のものとほとんど同じ短粒米で、ご飯に炊くとなかなか旨かった。大豆も上質で、しばしば煮て食べていたが、突如、「ああこれで納豆が出来たら」と思った。そう思うと納豆恋しの気持がいやが上にも募って来る。大豆は山ほどあるのだが、何しろ稲が存在しないから納豆菌がいない。イースト菌ではどうやっても納豆にならない。
そんな時に、知り合いの日本の商社駐在員が福井に納豆菌を製造販売している会社があると教えてくれた。早速実家の兄に知らせ、取り寄せてもらった。問題はそれをプラハまで運ぶ手段である。そんな得体の知れない菌を郵送すれば、たちまち発見、没収されるばかりか、国家の安全を脅かしたとか何とか難癖をつけられて逮捕されかねない。しかし、何としても欲しい。考えた末に、季節の変わり目ごとに日本から送らせる下着などの衣類にこっそりひそませて送らせた。
プラハ国際郵便局から荷物が届いたから出頭せよとの通知が来た。いかめしい税関吏の目の前で、小包を広げる。シャツ、パンツ、靴下……。「よろしい。持って行け」。
納豆菌は小指よりも細いガラス瓶に密封され、靴下の中に入っていた。透明な結晶がきらきらと輝いている。ガラス瓶を包んだ紙には兄の字で“medicine for athlete’s foot(水虫薬)”と書いてあった。いざとなったらこれで言い抜けろということなのだろう。それにしても靴下の中の水虫薬とは。おかしいやら嬉しいやらで涙が出た。
大豆を茹でて、処方箋通りにぬるま湯に溶かした納豆菌を振り掛け、弁当箱に小分けしてタオルにくるんで室内のスチーム暖房機の上に載せた。窮乏生活を強いられていた当時のチェコだが、さすがに北国だけあって、1920年代に作られた市内全域のスチーム暖房システムがほころびながらも生きていて、我が家にも懐かしい蛇腹の暖房機があり、ときおりピチーンピチン、ガタガタンという音を発しながら熱を伝えてくれていた。それがちょうど40度くらいで、納豆の発酵には都合が良かったのだろう、翌朝ふたを開けてみると見事な納豆が出来ていた。
小鉢にとってかき混ぜると立派な糸を引く。感激した。早速ベトナム米の熱いご飯にのせて掻き込んだ。旨い。正真正銘の納豆である。しかし何だか物足りない。あの納豆独特の匂いが極めて薄いのである。
考えてみれば、このチェコ産納豆は大豆に不純物の一切まじっていない納豆菌を振りかけて出来た、いわば純粋培養の納豆である。恐らく日本で作れば、納豆菌だけではなく、何か別の種類の菌もいろいろ混入して、人によっては悪臭と感じるあの独特の匂いが醸し出されるのではなかろうか。
当時のプラハに居住する日本人は赤ん坊を入れても100人程度で、世帯数で言えば30世帯くらいに留学生が10数人といったところであった。「プラハ納豆」はたちまち評判となり、所々方々から貰いが掛かった。留学生に声を掛けて味噌汁に納豆ご飯を振る舞って涙をこぼされもした。納豆菌の密輸入という違法行為を犯した後ろめたさも、皆に喜んでもらっているうちに消し飛んでしまった。今日では各国の大都市にある日本食品店には冷凍保存された納豆を売っているから、納豆菌というものは見知らぬ土地に持ち込んでもそれほど悪さをする菌ではないようである。
それはさておき、日本では納豆は1年中あるせいか、歳時記によっては季語として採用していない。また、納豆がなぜ冬の季語になったのかよく分からない。年中食べるものではあるが、あのねばねばした食感は夏には似合わず、熱い飯にかけて掻き込む気分が冬にふさわしいということで、そうなったものであろうか。滝沢馬琴の「俳諧歳時記栞草」には「納豆」は出ていないが、「納豆汁」を冬の季語としている。納豆汁はすりつぶした納豆を味噌汁に混ぜ、豆腐や野菜を具にした汁で、身体が温まる冬の汁物である。どうやら納豆汁が先ず冬の季語に取り上げられて、後から納豆そのものも冬の物とされるようになったようである。
昔は納豆売というものが人々の暮らしにお馴染のものであった。年端もゆかない子供や苦学生が「ナットナット、ナットー」と声を張り上げ、町を売り歩く。冬場は特にそれがよく響いた。これも納豆を冬の季語にした役者かも知れない。ただ「納豆の糸引っ張って遊びけり」という一茶の句(「七番日記」文化9年12月の項)があるように、江戸時代にも既に納豆は冬のものという意識があったようである。
有明や納豆腹を都まで 小林一茶
豆腐屋の来ぬ日はあれど納豆売 正岡子規
まぎれなき雪の糸ひく納豆かな 久保田万太郎
納豆にあたたかき飯を運びけり 村上鬼城
柳橋かけて納豆売りにけり 籾山梓月
納豆や貧乏致す源三位 小杉余子
藁苞のすがすがしさの納豆かな 中村楽天
納豆や切れて見果てぬ獄中夢 秋元不死男
箸割れば響く障子や納豆汁 石塚友二
陋巷に尚ほ生きる身や納豆汁 峰青嵐