鍋焼(なべやき)

 いま鍋焼と言えば、誰しも鍋焼うどんを思い浮かべるが、江戸時代の末頃までは魚介類や鳥肉を野菜と共に味噌煮にする鍋料理を指していた。寛延元年(1748年)初演の歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の祇園一力の段に「鶏しめて鍋焼させむ」という台詞が出て来るが、これも今日の鳥鍋のようなものらしい。鍋の内側に味噌を土手状にへばりつかせて、その中で牡蛎と葱、豆腐などを煮る土手鍋があるが、これも鍋焼と呼ばれていたという。

 鍋料理がどうしてうどん料理になったのか。発祥は幕末の大阪らしい。当時、江戸には屋台の夜鷹蕎麦があり、大阪には夜啼きうどんがあった。その夜啼きうどんを一人前の土鍋に仕立てて保温性を高め、上に卵焼や焼蒲鉾、葱などをのせて熱々で供したところ、大いに人気を得た。文久、元治という、もう明治が目と鼻の先に迫った殺伐とした時期であった。

 そして明治維新。江戸が東京に変って、関西地方からも人がどっと入って来るにともなって、この「うどんの鍋焼」も流入し、上に乗っかるタネもにぎやかになり、東京の蕎麦屋で「たね物うどん」の最高級メニューとして定着していった。

 鍋焼うどんの先輩格に「煮込みうどん」がある。尾張名古屋の「味噌煮込み」や山梨の「ほうとう」などがよく知られているが、いろいろな具と一緒にぐつぐつ煮込んだ味噌仕立てのうどんである。鍋焼うどんが一旦茹でたうどんを入れて温めるのに対して、煮込うどんは生うどんを入れて煮る。当然、煮汁にはうどんを打つときに振った打ち粉の小麦粉が溶け込んで、少しばかり濁り、とろみがつく。それがまた濃厚な味わいを生み、いかにも田舎の風情を醸し出す。

 鍋焼うどんは、屋台で出していた掛けうどんやしっぽくと、この煮込うどんの合成ではなかろうか。生うどんをぐつぐつ煮込むのは時間がかかり、ファストフードである夜啼うどんには合わない。手っ取り早さを身上とする屋台だから、あらかじめ茹でたうどんを使った。そのかわりに小型の一人前の土鍋を用いて、きれいに具を並べ、ふつふつ煮えたぎった土鍋のまま供する。うどんはいっぺん湯に通っているから醤油仕立ての汁を濁らすことなく、すっきり仕上がる。これが大阪や江戸の町民に受けたのであろう。

 東京は蕎麦、大阪はうどんと言われるが、そうなったのは江戸も中期以降のことで、それまでは江戸もうどん一辺倒だった。小麦は4世紀の終り弥生時代後期に朝鮮半島経由で伝わったものだが、蕎麦はもっと古くから日本にあったらしい。それはとにかく、古代日本では蕎麦も小麦も石皿で砕くか臼で搗く方法しか知らず、微粉にすることができなかった。小麦粉とか蕎麦粉とはとても言えない、荒い粒子の「挽割り」状態である。従って、これをそのまま焼いて「麦こがし」のようにして食べるか、熱湯を注いで掻き混ぜ「そばがき」のようにするか、あるいは水を加えて練って団子状にしたものを煮て食べるかの方法しか無かった。

 こういう状態がずっと続いていたが、奈良時代から平安初期に中国から「混沌」という食物が入って来た。小麦粉を練って丸めた中に野菜や肉を詰めて焼いたり蒸したりした、今日の餃子か肉饅頭のようなものだったらしい。熱い煮汁から掬って食べることもしたので「温沌」とも呼ばれ、食物だから食偏がついて「饂飩(おんとん)」という字が宛てられた。それがやがて中味抜きのスイトンみたいなものに変っていった。一方では小麦粉を練った塊を紐状に延ばすことも試みられ、手で細く伸ばし、素麺の前身の索麺(むぎなわ)が生まれた。

 平安末期から鎌倉時代に中国から石臼が入って来た。これは当時の日本にとっては革命的な道具で、室町時代には全国的に普及した。石臼を使うことによって、ようやく微粉の小麦粉が得られるようになったのである。きめ細かな粉だから加工しやすく、のびのある饂飩ができる。こうなると一本ずついちいち手で伸ばす索麺ではなく、水で練った小麦粉を丸めて平らに延ばし、畳んで包丁で切る「麦切り」の方が手っ取り早い。こうして今日のような「うどん」が誕生した。名前の方は大昔の「饂飩」がそのまま残り、室町時代には「おんとん」とか「うんどん」と発音されていたようである。

 蕎麦の方は少し厄介であった。何しろ蕎麦粉は水で練ってもパサついてまとめにくい。平らに延ばして紐状に切ると、ぶつぶつ千切れてしまう。だから石臼のおかげで細かな蕎麦粉が出来るようになっても、かなり後まで「蕎麦掻き」で食べたり、練った蕎麦粉をしゃもじや皿の縁に取って木の葉型にしたものを熱湯で湯がき、それに味噌や醤油をつけて食べたりしていた。今日のような蕎麦ができたのは江戸時代になってからである。一説では江戸初期に奈良の東大寺にやって来た朝鮮の僧元珍が、小麦粉をつなぎにして蕎麦粉を練り、捏ねて延ばして切る方法を伝えたという。これが京阪から江戸へと伝わり、「麦切」ならぬ「蕎麦切」として広まった。

 寛文四年(1664年)に江戸で初めて「けんどん蕎麦切」の看板を掲げた店ができたという話が「昔昔物語」なる書物に出ているそうだが、まだまだその頃の江戸は饂飩の時代であった。幕府は稲の裏作として小麦栽培を奨励し、小麦の年貢を低くする税制優遇措置をとったため収穫量が増加し、都市部での小麦粉消費量の増大、つまり饂飩の大量消費につながったという事情もある。

 これに対して、蕎麦は稲が育たないような場所でも平気で実るから、当時の農民は痩せ地などに蒔いて、もっぱら自家消費用にしていた。つまり蕎麦は寒冷地作物、あるいは救荒食という位置づけで、江戸などの都会人士にはあまり馴染がなかったのである。ところが「小麦粉2、蕎麦粉8」という理想的配合による蕎麦切が生まれ、一気に広まった。いわゆる「二八蕎麦」の誕生である。蕎麦の香気と喉越しの旨さを知った江戸っ子はたちまち蕎麦切フアンになり、元禄時代(1700年代初頭)には江戸の町々に蕎麦屋が続々と生まれた。逆に饂飩は蕎麦屋の品書の一品に押しやられてしまった。一方、関西地方では相変わらず饂飩が圧倒的勢力を保ち続け、さまざまな饂飩が登場し、ついには「鍋焼うどん」まで生み出すようになった。

 ただ鍋焼うどんが本格的に広まったのは明治も後半になってのことらしい。日清日露戦争前後の国力増進期で、東京の町の経済活動は活発になり、外食産業も急速に整ってきた。「丼もの」が大流行したのもこの頃である。またちょうどこの時期には陶磁器の窯場も近代化し、安い食器が大量生産できる態勢も整った。鍋焼の土鍋も安く大量供給できるようになったわけである。

 鍋焼うどんは冬の蕎麦屋の売り物になり、蒲鉾、麩、鳴戸巻、椎茸の煮染め、筍、葱、クワイ、さらには玉子を落としたり、海老の天麩羅を乗せたりする豪華なものが出てきた。しかし、昭和に入り日支事変以降、物資不足になるや、鍋焼うどんは真っ先に姿を消した。上に乗せるものが葱と麩しかなくては鍋焼にならないのである。そして戦後も昭和30年代にならないと本格的な鍋焼を庶民が気軽に食べることはできなかった。

 「鍋焼」が季語になるのは、もちろん正岡子規による近代俳句以降である。子規には『鍋焼や火事場に遠き坂の上』という、丘の上で鍋焼をふうふうやりながら火事を遠望する面白い句がある。尾崎紅葉には『鍋焼の火をとろくして語るかな』という、料理屋の座敷に上がり込んで鍋料理のような豪勢な鍋焼で一杯やっている句がある。この頃は鍋焼はまだ珍しく、子規や紅葉は俳諧味あふれる句材が見つかったと喜んでいるようにも見える。


  鍋焼や夜店もたゝむ十時頃   高田蝶衣
  鍋焼ときめて暖簾をくぐり入る   西山泊雲
  燭台や小さん鍋焼仕る   芥川龍之介
  酒よりも鍋焼を欲り老い兆す   瀧春一
  居残りの数の鍋焼とどきけり   加藤松薫
  鍋焼を吹いて食べさす子守婆   滝沢伊代次
  鍋焼や芝居で泣いて来たばかり   三宅絹子

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