鍋物(なべもの)

 「鍋」とか「鍋もの」という言葉は季語になっていない。「寄せ鍋」とか「牛鍋」と言うように分類化された鍋がいくつか冬の季語に取り立てられているに過ぎない。しかし、今日これほど盛んな冬の代表料理は他に無いし、「今夜は鍋にしよう」といった会話が家庭でも出先でもごく普通に交わされるほど、おなじみになっているのだから、鍋料理の総称である「鍋物」という言葉が季語として認知されて当然だと思う。

 季語が季語とされる所以は、その言葉を聞いたり見たりすれば、誰でも特定の季節を感じ、そこから発して個人的あるいは万人共通の感懐を抱き、いろいろな思いが去来し、思考世界が広がって行く。そういう広がりを持った言葉が季語とされる。その点、「鍋物」は、もう十分に季語の資格を備えている。

 日経俳句会幹事で全日本鍋物研究会の主宰者でもある今泉恂之介さんは、「鍋物は明治になって牛鍋が文明開化の象徴として持囃されるまでは、料理として認められていなかった」と言う。魚や肉、野菜を鍋でぐつぐつ煮て、それを皆で取り巻いて直箸を突っ込んで食べるというのは、無作法も甚だしく、到底料理の範疇には入れてもらえなかった。料理として認めてもらえなかったくらいだから、季語にも成り得なかったというわけである。

 しかし、漁師や猟師、農民たちは、火に掛けた鍋に取れたての食材を入れて煮ながら皆で食べるという鍋料理を大昔から続けて来た。その素晴らしさが江戸時代になると都会の住民にも伝わり、洗練されて「ちり鍋」と称する料理に育っていった。しかし、当時はあくまでも「汁」の一種として、1人分ずつ椀に盛られて供されたようである。「あら何ともなやきのふは過てふくと汁 芭蕉」も、今日の河豚鍋、河豚ちりと同じようなものと推測されるが、この当時は河豚鍋という言葉は存在しなかった。瀧澤馬琴の編んだ「俳諧歳時記栞草」にも「河豚汁」として載っている。ただし、「三冬を兼ねる物」の項に収められているところをみると、当時から河豚ちりはかなり人気があって、初冬から晩冬にいたるまで食べ続けていたらしい。

 もう一つ、「薬食」(くすりぐい)というものがあった。これは現在「紅葉鍋」と言われている鹿の肉の鍋料理が基になっている。やはりこの言葉も「俳諧歳時記栞草」に出ている。鹿は春日大社のお使いだから、食べる場合には遠慮して「シカ」と呼ばずに「ロク」と呼びならわすというようなことが書いてあり、続けて「鹿肉(ろくにく)甘温にして毒なし。冬時に食ふべし。……中(うち)を補ひ気を増す。一切の風虚を療し血脈を調ふ。故に是を薬食と云ふ。諸獣も又これを食ふ者あり」と礼賛している。馬琴が調理法を書いておいてくれなかったのが惜しいが、当時の各種資料から、これは明らかに鍋料理である。臭いを消すために醤油の他に味噌を使い、葱と大根、時には芹など香りの強い山菜を入れて煮たらしい。

 当時は鯨は魚とされていたから、鯨肉は大ぴらに食べることができた。猪も「山鯨」と称して流通した。これと鹿が当時の三大消費獣肉類だったようである。しかし表向きは四つ足の肉を食べることが憚られていたから、「薬食」なる言葉を発明し、病後や虚弱体質改善のためという口実を構えたのだが、もっぱら健康な人たちが食べていた。古典落語の「二番煎じ」では、寒中に火の用心の見回りに駆り出された町内の連中が、番小屋に酒と猪肉を持ち込み、ぐつぐつやり出す場面が描かれている。明治になって牛鍋がブームになる下地は既に江戸の昔に出来ていたのである。

 花札で鹿は紅葉と取り合わせてあるところから、鹿肉鍋には「紅葉鍋」と洒落た名前がついた。その伝で行けば、イノシシ鍋は「萩鍋」と言いそうなものだが、これは「牡丹鍋」と言う。昔は猪をもっぱら「シシ」と呼んでいたので、屏風や襖絵でおなじみの「獅子に牡丹」の連想から名付けたようである。精力増進に一番などと言われる馬肉鍋は「桜鍋」と呼ぶ。古謡の「咲いた桜になぜ駒繋ぐ、駒が勇めば花が散る」から出たもので、かなり艶やかかつ際どいネーミングである。そう言えば、桜鍋は鰻屋や泥鰌鍋と共に花街の周辺に店を構えることが多かった。東京では浅草や深川に今でも老舗の桜鍋の店や鰻屋、泥鰌屋がある。若い者がこういう店でわっと気勢を上げてから繰り込んだり、帰り道に凱旋話をしながら栄養補給をしたのだろうか。桜鍋には「ケトバシ」という別名もある。「馬は蹴る」から来たことは言うまでもないが、振られた奴が仲間の自慢話を面白くなさそうに聞きながら鍋をつついているうちに、ふと思いついた名前かも知れない。ついでにふれておくと、鰻や泥鰌鍋は夏の季語である。

 話がすっかり横道にそれたが、このようにずっと大昔からあった鍋料理は明治末から大正時代になって、ようやく「牛鍋(鋤焼)」「寄せ鍋」「紅葉鍋」「牡丹鍋」「河豚鍋(河豚ちり)」「鮟鱇鍋」などが季語として用いられるようになった。その後も地方色豊かな「塩汁鍋(しょっつるなべ)」「きりたんぽ鍋」「石狩鍋」「成吉思汗鍋」なども加わって、ますます多彩になっている。


  蘭学の書生なりけり薬喰   正岡子規
  又例の寄鍋にてもいたすべし   高浜虚子
  寄せ鍋やむかしむかしの人思ふ   山口青邨
  子の誰も戻らざりける紅葉鍋   林誠一
  紅葉鍋無頼の顔となりゆけり   吉田美代子
  ぼたん鍋食べし渇きか雪を食ふ   橋本美代子
  夜の湖のたちまち靄に牡丹鍋   斉藤梅子
  吹溜るごとく来にけり桜鍋   蒲生光義
  牛鍋に一悶着を持ちこめり   村山古郷
  牛鍋に箸ふれ合ひてより親し   石黒澄江子
  ちり鍋やぎんなん覗く葱の隙   石塚友二
  河豚鍋や愛憎の憎煮えたぎり   西東三鬼
  悪名もいまはむかしの鮟鱇鍋   鈴木真砂女
  七人の敵に囲まれ鮟鱇鍋   藤田清美
  マズルカを弾きこなし得ず塩汁鍋   赤尾恵以
  成吉思汗鍋に身火照り冬野宴   野見山朱鳥

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