餅搗(もちつき)

 12月も半ばを過ぎると、煤払い、大掃除に始まって、お正月の準備が始まる。「年用意」と言って、昔の人はこれを順序よくこなしていった。その中でも26、7日頃から始まる「餅搗」は重要な行事であった。

 餅はハレの食物、つまり祝い事の際には必ず供される食べ物であり、糯米を蒸して臼などで搗いて十分に粘り気を出して丸めたものである。日本に米がもたらされた縄文時代末期には米の加工方法の一つとして餅のようなものの作り方が伝来したものと推測され、平安時代の百科事典とも言うべき「和名抄」にもモチゴメ、アハノモチ、キビノモチなどの言葉が出ている。ただしこの頃は「モチヒ」と呼ばれていたらしく、これに中国から輸入した漢字の「餅」を当てた。

 しかし、中国語の「餅」は「ピン」と発音し、主として小麦粉を練って丸めたり円形に伸ばして焼いた「お焼き」を指す。奈良時代の大和朝廷は熱心に中国文化を導入し、漢字の学習、定着もその一つだが、漢字が発達した中国の中原、つまり黄河流域は麦作地帯であり米作が行われておらず、「餅」の原料は小麦だったのである。米は揚子江流域以南で作られ、現在の浙江省や福建省あたりから直接日本に入って来たか、あるいは朝鮮半島を経由してもたらされたのではないかと言われている。とにかく、南から入って来た米を蒸して搗いて丸めたモチという食物に、形が良く似ている北方の食物を指す「餅(ピン)」という字を宛てたわけである。

 ただ今日の中国では北京や西安などの北部の都市でも米はかなり食べられるようになり、米で作った餅状のものも「餅」と言うことがあるようだ。また、正月(旧正月)の祝い菓子として米の粉でニェンカオという甘い饅頭のようなものを作っている。これらは米を一旦、製粉してから水で練って蒸して丸める方法を取っている。こうした方が舌触りが滑らかになり、時間がたっても固くならないからだという。一方、福建省、雲南省など南西部の田舎には蒸した糯米を臼で搗く昔ながらの製法による餅が残っている。つまり日本人は大昔、中国から伝わった餅の作り方を大事に守り続けて来たようなのである。

 貞享5年(1688年)刊行の「日本歳時記」(貝原好古編)には「(十二月)二十六、七日頃餅を製すべし。此日より前に立春の節に入らば、大寒の節の内に別に餅を作り、今日は年始に用いるのみを製すべし。臘水(陰暦十二月の水、寒の水)にて餅を製すれば味美にして久に堪へ、かつ性和なる故なり。然ども歳初に用るは日数多くへたるは堅硬なる故、早く製すべからず。但し大寒の内に製してもその翌日より水に漬置けば常にやはらかなり」とある。ここからも明らかなように江戸時代初期から餅搗は暮れの26、7日からと決まっていたようである。もちろん当時の暦は陰暦であり、12月は小寒、大寒の月である。しかし月の運行をもとにした陰暦は太陽の動き、つまり季節とのずれが生じて、数年に一度は12月末に立春が来てしまうことがある。貝原好古は「そういう年は仕方がないから餅搗を繰り上げて大寒の期間中にやってしまいなさい。ただし早めに搗いた餅は堅くなっているから、元日の祝膳用の餅はこの日に搗きなさい」と言っている。

 大寒のうちに搗いた餅はきめ細かく味が良く、日持ちも良いとされ、しかも元日までにあまり日が開かない頃というので、26、7日が餅搗と定まっていったようである。

 江戸時代から連綿と昭和も第2次大戦後しばらくは、田舎はもとより都会地でもあちこちで餅搗風景が見られた。鳶の頭などがリーダーになり餅搗チームを編成し、臼や杵をはじめ糯米を蒸す蒸篭、大きな釜、時には竃まで積んだリヤカーや大八車を引いて、得意先の豪商やお屋敷を回り、庭先で威勢の良い掛け声とともに搗きまくる。その賑やかさは大変なもので、近所の大人も子供も大勢で見物にやって来る。

 搗き上った餅の塊は次々に延し板に載せられ、姉さん被りの女中衆がまず最初の一臼分で神棚に供える大小の鏡餅を丸める。次いで湯気の立つ餅に粉をつけながら麺棒で伸ばして熨斗餅をこしらえていく。出来上がったのし餅は青々とした「餅筵(もちむしろ)」に並べられ、あたり一面餅だらけとなる。一方、搗き立ての餅の一部はちょいちょいと千切って大根おろしや黄な粉やアンコをまぶしてからみ餅にされ、集まった人たちに振る舞われる。子供たちは大喜びで跳ね回り、おカミさんたちも嬉しそうである。すべて搗き上がり、のし餅やお供え餅がすっかり出来上がると、親戚や隣り近所に少しずつおすそ分けする。これを「餅配(もちくばり)」と言い、いやしくも盛大に餅搗を行う家としては当然為すべきこととされていた。搗き上った餅を一緒に食べて身内意識を再確認する意味合いもあった。

 このように餅搗というものは、新年を迎える準備であると同時に、今年も無事に過ごせたことを感謝しながら、親戚知人隣近所との誼を通じるという暮れの儀式でもあった。従って餅搗は一家総出で、できる限り賑やかに、来るべき年がいかにも景気良くなるような感じになる、そんな威勢の良さをこめて行うものであった。

 ところが昭和の初め頃から米屋や菓子屋に注文して搗かせる「賃餅」が出始め、庶民家庭はもっぱらこれに頼るようになった。さらに戦争が激しくなるとともに米が配給の時代になり、敗戦後数年経過するまでは餅搗どころではなくなった。その後一旦復活したのだが、今では臼や杵もおいそれとは見つからず、餅の搗き手もいなくなり、裕福な家庭でも賃餅ばかりということになって、暮れの一大イベントである餅搗はすっかり姿を消してしまった。最近では農家でも餅搗をやらない家が多くなったという。都会では賃餅すら頼まず、スーパーやコンビニでポリエチレン・フィルムに包まれた切り餅を買って来る家庭が増えているようである。


  病床に聞くや夜明の餅の音   正岡子規
  かるがると上る目出度し餅の杵   高浜虚子
  餅つきや敷き並べたる青筵   島田五空
  餅搗の見えてゐるなり一軒家   阿波野青畝
  餅搗きし父の鼾声家に満つ   西東三鬼
  搗きあげし餅を嬰子のごと運ぶ   肥田埜勝美
  一臼は船霊さまの鏡餅   山信夫
  一臼を搗きて全身餅しぶき   坂口百葉
  配り餅して近隣に誼あり   安住敦
  餅配大和の畝のうつくしく   大峯あきら

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