餅と言えば正月の雑煮を思い出すほど、新年の付き物みたいになっているが、元々は祝い事や豊作を神に感謝するための供え物として、正月ばかりでなく、祭礼や普請、婚礼などの催事にも作られた。だから、「餅」そのものは特定の季節を表わすものではなく、従って江戸時代には季語として取り上げられていなかった。
しかし、新年が餅を最もたくさん消費する時季であることは、昔も今も変わりがない。新年用の餅を作るのは年の暮である。昔は暮れも押し詰まり二十六、七日頃になると、あちらこちらで餅搗(もちつき)が始まり、町中にぺったんぺったんという杵の音や威勢のいい掛け声が響き渡った。正月を迎えるのだという、はずむような気持を抱かせる行事だった。その印象が非常に強かったせいであろうか、「餅」は季語にならないが「餅搗」という行為を表す言葉は歳末の雰囲気を伝えるものとして季語になった。それと並んで、搗いた餅をあちこちに配る「餅配」、小さく丸めた餅を木の枝に挿して飾り物や子供の玩具代りにする「餅花」というのも季語になった。
「餅」そのものが単独で季語になったのはごく新しく、作例はほとんど昭和に入ってからのものである。昭和時代になるとよほどの旧家でない限り、家ごとに餅を搗くことをしなくなり、米屋や菓子屋に搗かせた餅を配達してもらうようになった。また、都会の家庭では正月以外は切り餅や丸餅を食べることが少なくなった。そのようなわけで、「餅搗」に代って「餅」そのものが正月と歳末風景を象徴するものになり、季語になったのではなかろうか。
餅の起源は非常に古い。恐らく、縄文時代末期に中国大陸から稲がもたらされたのとほとんど同時に、餅のようなものが存在したであろう。古い日本語では餅のことを「モチヒ」と呼んでいたようである。漢字を宛てれば「餅飯」。モチはねばねばしたものを指し、イは飯のことだから、炊いた御飯を潰して粘り気を出し、団子のように丸めたものがモチヒである。
モチヒは御飯を握っただけの握り飯(むすび)よりはずっと小さくなるし、乾燥して固くなっても火にあぶればすぐに柔らかくなる。保存食・携行食として利用されたことは容易に想像がつく。やがて語尾のイが消失して「モチ」という言葉になり、輸入されたばかりの漢字「餅」が宛てられた。ただし漢字と共に中国から伝わってきた本場の「餅(ピン)」は中国の中原から北部地方の産物だから、原料は小麦粉だったはずである。
とにかく、餅の発生過程からすれば、今でも関西地方以西で供されている丸餅の方が伝統的な餅ということになる。蒸した糯米(もちごめ)を臼で搗いたねばねばした塊を、板の上にぶちまけて一気に伸ばし、少し乾いて固まってきたら四角にぶつぶつ切って量産するという乱暴なやり方は、いかにも気が短く荒っぽい江戸風である。
平成の世の中では冷蔵庫の無い家庭はほぼ皆無と言ってもいいだろうが、昭和も四十年代まではむしろ冷蔵庫のある家の方がめずらしかった。わざわざ「電気冷蔵庫」と呼んで、台所の一番目立つ所に据えたものである。その頃までは、「餅の黴」が大問題だった。暮に搗いた餅は冷蔵庫に入れておけばかなり保つのだが、台所に置いたままでは正月も三が日を過ぎると、そろそろ黴が生えて来る。青、黄、赤、黒、紫と、うぶ毛のように生えて、七草の頃にはお化けのようになってしまう。今のように何でも捨ててしまう時代ではないから、こうなってからも丁寧にカビを削り取って、食べた。このカビ削りは、炬燵のお婆さんか、ごろごろしているばかりのお父さんの役目と相場が決まっていた。
カビの発生を食い止めるために水を張った容器に餅を沈めておく水餅というものもあった。逆に、薄く切った餅をからからに干した「かき餅」も懐かしい。これを火鉢にのせた焼き網の上でしゃもじなどでこすりながら炙ると、周りはかりかりで中がふっくらと柔らかくなり、醤油をつけて食べると実に旨い。真空パックの切り餅が簡単に手に入る今では、黴餅も水餅もかき餅も、すっかり昔語りになってしまった。
餅焼く火さまざまの恩に育ちたり 中村草田男
餅板の上に包丁の柄をとんとん 高野 素十
黴餅の毛がふさふさとけものめく 内藤 吐天
餅の膨らみ俄にはげし友来るか 加藤 楸邨
餅焦がしつゝ繰言の始めかな 清水 基吉
餅膨れつつ美しき虚空かな 永田 耕衣
餅箱の父の書にある年齢となる 中川 正登
餅腹を佐原囃子にゆさぶらる 木村 虹雨
フェリー発つ土産の餅のあたたかく 新 昇二郎
餅を切る昨日と今日を切り離す 宮川由美子