「みづばな」と濁音で言うこともあり、「みづっぱな」とわざとぞんざいな口調で言うこともある。「洟水(はなみづ)」と詠む場合もある。いずれにせよ到底、和歌の世界ではうたわれない言葉で、いかにも俳諧らしい季語である。露悪趣味が流行り出した大正頃からの季語かと思っていたら、馬琴の「俳諧歳時記栞草」冬の部に「兼三冬物」として「水洟」がちゃんと載っている。その解説がふるっていて「鼻のなかに水を出すをみづばなと云」とあるだけである。このように古くから季語に取り上げられてはいるものの、江戸時代の水洟の句は見当たらない。やはり現代俳句になって、よく詠まれるようになったのだろう。
冬になって鼻粘膜が冷たい空気に刺激されると、水のような鼻汁が出る。どうやらこれも人体諸器官に備わった自衛機能のしからしむるところらしい。外部から侵入しようとする病菌を流し出してしまおうというのではないか。風邪の引き始めにもしきりに水洟が出る。拭ってもひっきりなしに出て来る。最後には鼻の回りが赤くなってひりひりする。そのくらいの時に薬や熱燗でも呑んで、早めに寝てしまえば治りも速いが、放っておくとこじらせてしまう。水洟もだんだん粘着力が出て来て、色もついて来る。
昔はよく洟を垂らして遊んでいる子供がいた。袂からたえずくしゃくしゃの鼻紙を引っ張りだして、ぐしゅぐしゅやっている年寄りも多かった。良い薬が無かったせいだろうか、全体に栄養状態が悪かったせいだろうか。それが近ごろ、冬期の洟垂らしが減って来る一方で、春から初夏にかけての花粉症による水洟垂れが激増している。そのうちに「水洟」は冬の季語ではなくなるかも知れない。
それはとにかく、「水洟」はまったく不景気な、うらぶれた、わびしい感じである。ただ、淋しさ、侘びしさの中にユーモアとペーソスが漂う。その感じをあまり作為を凝らさずに、うまくすくい取ることが出来るかどうかが、水洟の句の善し悪しの分れ目になりそうである。
水洟と聞けばそのイメージがぱっと頭に浮かぶ。万人がその体験を持っている。そのせいか歳時記に載っている水洟の句はどれも分かりやすく、共感を覚えるものが多い。それだけに、作りやすい季語であるとも言えるし、これほど難しい季語は無いとも言える。折角出来たとほくそ笑んだところが、大概は先人が詠んでしまっているのである。
水洟や鼻の先だけ暮れ残る 芥川龍之介
念力もぬけて水洟たらしけり 阿波野青畝
水洟のほとけにちかくなられけり 森川暁水
水洟や我孫子の駅のたそがれて 石田波郷
水洟や押して事なき盲判 西島麦南
水洟や石に腰かけ日暮待つ 草間時彦
水洟や下ろしてみても貧しき灯 相馬黄枝
水洟やことさらふかく争はず 望月健