炬燵(こたつ)

 こたつというものは実に気持の良いものである。日本人の発明品の中でも秀逸の部ではなかろうか。「日本民具事典」(日本民具学会編)によると、室町時代に囲炉裏に櫓を設けて衣や布地を被せて暖をとるようになったのが始まりという。これが堀炬燵の祖型で、櫓と言うより囲炉裏の上に簀の子を載せてその上に足をのせ、上から着物や紙衣をかぶせる方式だったらしい。冬が去れば、簀の子をはずして、元の囲炉裏に戻したわけである。

 江戸時代に入ると、櫓が高くなり専用の炬燵布団を被せ、その上に板をのせて食事や書き物などもできるようになっていった。さらに床下を畳半分の広さで掘り下げて炉をしつらえ、上には机型の櫓を置いて炬燵布団を掛ける本式の腰掛け式掘炬燵も生まれた。春になったら櫓を取り払い、半畳分の畳をはめ込んで元の座敷に戻す。

 一方、置き炬燵も元禄時代(1688─1704)には盛んになった。この頃、瓦焼きの安物の火鉢が売られ、これを底が板張りになった小型の櫓に入れて布団を掛けた。部屋のどこにでも動かせるし、小型だから、一般庶民の家庭で使われた。夜寝る時にはその四方に敷布団を延べ、掛け布団を掛けて、それぞれが四方から足を炬燵の方に伸ばして寝た。これと似たものに「行火(あんか)」というものも生まれた。粗末な陶器製の火入れで、中に炭火や炭団を埋めるようになっている。小型の火鉢(手あぶり)ほどの大きさで、この上に直に布団を掛ける。櫓が要らないから、ますます簡便で、これも大いに流行り、つい最近まで、電気炬燵が出現するまでは一般家庭でずいぶん利用された。

 日本家屋は夏の蒸し暑さと湿気を避けることを重視して作られていたから、冬は大変だった。ことに長屋などはひどいものだったらしい。外部とは薄い壁と板戸や障子で隔てられているだけである。暖房器具は火鉢だけ。そんなところに現れた炬燵がもてはやされたのも無理はない。

 「芭蕉と門人たち」(楠元六男著、NHK出版)に二世市川団十郎の日記から引用した芭蕉の門人たちの暮らしぶりが紹介されている。「笠翁子も嵐雪居士もどらにて、てれふれ丁足駄屋のうら、其角翁の所に、出居衆に笠翁は居られ、嵐雪もかかりどにて、三人居られ候よし」とある。笠翁というのは破笠(はりつ)とも言う芭蕉の古い弟子で、二代目団十郎と知合いだった。笠翁も嵐雪もどら(放蕩者)で、てれふれ丁(照り降り町、日本橋堀留町のことで、傘屋と履物屋が多かったので、洒落て照り降り町と呼んだ)の裏長屋の其角の家に、笠翁は出居衆(日雇い)として日銭稼ぎをし、嵐雪は完全な居候で、3人で住んでいたというのである。そして笠翁は「破笠三友一被図」という、この3人が炬燵布団に三方から足を突っ込み窮屈そうに寝ている絵を描いた。貧乏を屁とも思わない自由人3人が仲良く炬燵に足を突っ込んで、俳句を作りあっていた様子が目に浮かぶようだ。其角には「寝ごころや火燵蒲団のさめぬ内」という句もある。

 炬燵はこういう風に日本人の冬の暮らしに無くてはならないもので、庶民的、家族的な雰囲気を伝えてくれる。それだけに江戸時代から数多く俳句に詠まれ、名句も多い。


  影法師の横になりたる火燵かな   内藤丈草
  真夜中や炬燵際まで月の影   向井去来
  淀舟やこたつの下の水の音   炭太祇
  思ふ人の側へ割り込む炬燵かな   小林一茶
  句を玉と暖めてをる炬燵かな   高浜虚子
  大空の風ききすます炬燵かな   渡辺水巴
  落つる日の障子見てをり置炬燵   本田あふひ
  炬燵より跳ぶ吾子全身にて受ける   沢木欣一

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