初冬に吹く強い北風で、木々の葉を落とし、枯木のようにしてしまう風だから「木枯らし」と呼んだ。気圧配置が西高東低の冬型になると吹き始める。11月の風と言ってもよく、冬の季節風のはしりが木枯である。しかし、真冬の空っ風と違って、何日も吹き続くようなことはなく、木枯の吹いた翌日はぽかぽかと晴れて穏やかな天気になることが多い。これがいわゆる「小春日和(こはるびより)」である。
平安時代から江戸時代に至るまで、和歌の世界では木枯を秋(晩秋)に吹く風とも、冬の風とも、はっきり分け隔てすることをせず、だんだん寒くなって、万物枯れ枯れとして来るさまを歌う折の材料として来たようである。一方、俳諧の世界では、はっきりと冬の使者として定め、盛んに詠むようになった。「木枯」は和歌よりも俳諧・俳句で主役の座を与えられたと言ってよい。俳句では「凩」と書くことも多い。
実りの秋も終って、木々の葉が紅に黄に色づき始めると、間もなく木枯が吹いて葉を吹き散らす。いよいよ本格的な冬の訪れである。「木枯」は、ぶるっと震える身体的感覚もさることながら、これから迎える冬の厳しさに対する心理的な緊張感、孤独感の方により大きな比重がかかっているようである。秋風のもたらす寂しさとは違う、厳しい孤独感を抱かせる淋しさである。こんなところが昔の俳人の心を捉えたようだ。
芭蕉には『冬の日』の冒頭の一句、「狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉」(狂句にうつつを抜かし木枯に吹かれながらとぼとぼ旅を続ける私は、さしづめあの有名な狂歌師竹斎といったところでしょうか)があり、諧謔にまぎらせながら、新風を打ち立てようと苦心する自分を理解してくれる人の少なさを木枯に託して訴えている。
芭蕉とほぼ同時代の人、池西言水には「凩の果はありけり海の音」という名句がある。初冬の木枯吹き渡る海辺の、墨絵のような寂寥感である。文化13年(1816年)に刊行された竹内玄玄一という俳人の編んだ「俳家奇人談」には、池西言水の項でこの句を評し、「語尽きて意尽きず、至妙と言ひつべし。これよりして、木枯の言水と呼ばれしもむべなるかな」と絶賛している。
興味深いことに、ずっと後年、山口誓子は「海に出て木枯帰るところなし」と詠んでいる。まるで言水の続編のような感じも受ける。記憶が定かでないので、もしかしたら間違っているかも知れないが、誓子のこの句は、太平洋戦争も末期の敗色濃厚になった頃の戦闘機乗りの心情を詠んだものだという。そんなことは別にしても、この句も木枯の本意を余すところなく伝えてくれる作品である。
この二句とはちょっと趣を異にする木枯の句がある。芥川龍之介の「木がらしや目刺にのこる海の色」である。木枯らしがぴゅうぴゅう吹きまくる夕方だろうか、あぶっている目刺の肌が青く光る。その鰯が泳いでいた海にも木枯らしが吹き渡っているのだろうか。目刺を見つめながら、思いは広漠たる冬の海に広がっていく。
このように、木枯の句は厳しい自然界の様相を見つめながら、人の心に棲む孤独感、寂寥感を詠んだものが多い。
凩や馬に物言ふ戻り道 二葉亭四迷
凩や海に夕日を吹き落す 夏目漱石
木枯らしや夜半の中なるわが机 吉川英治
凩に追はるる如く任地去る 永田青嵐
凩や焦土の金庫吹き鳴らす 加藤楸邨
凩の中に灯りぬ閻魔堂 川端茅舎
死は深き睡りと思ふ夜木枯 相馬遷子
十方にこがらし女身錐揉に 三橋鷹女
凩の抜けて明るき雑木山 安藤まこと
凩やしかと空也の足の指 田口恵子