枯蓮(かれはす)

 蓮は古来から日本人には馴染の深い植物であった。その若葉も実も根っこも食べられるから、先史時代の人たちの蓮に寄せる親しみは、食の効用から来たものかも知れない。しかし、やがてその葉や花の美しさ、実が詰まった花托の特異な形態に詩心が誘発されて、歌の題材になっていった。万葉集には蓮の歌がかなりある。『蓮葉(はちすば)はかくこそあるもの意吉麻呂(おきまろ)が家なるものは芋の葉にあらし』(万葉集巻16)を声を上げて何回か読んでみれば、大きな池全体を蓮の葉が爽やかな緑で覆い尽した光景に、オキマロ氏が賛嘆の表情を浮かべながら見とれているさまが浮かんでくる。

 もちろん中国でもハスは大いにもてはやされ、蓮を詠んだ漢詩は枚挙にいとまがない。西暦800年頃の中唐時代、白楽天や韓退之などと共に活躍した詩人王涯に「秋思」という詩がある。

  宮連太液見滄波   宮は太液に連なりて滄波を見る   暑気微消秋気多   暑気微かに消えて秋気多し   一夜軽風蘋末起   一夜軽風蘋末に起り   露珠翻尽満池荷   露珠翻り尽く満池の荷

 宮殿の前に広がる太液池には青いさざ波が立ち、夏の暑さもようようおさまって秋の気配が濃くなってきた。一夜、そよ風が浮草の端を吹き揺らしたかと思うと、池全面を覆っている蓮の葉に置いた珠のような露がさっと転がり落ちる、といったところだろうか。主上のお渡りが無いことをかこつ宮女の嘆きを、転がり落ちる蓮の露に託した詩だとされている。一方、この頃の唐王朝はようやく疲れが見え始め、宦官が跋扈していた。王涯という人は次官級の高級官僚で、なかなかの硬骨漢だったらしく、宦官排除を策したが失敗して殺されてしまう悲運の人でもあった。この詩も艶っぽい小唄の体裁をとってはいるが、実は王涯の憤懣やるかたない心情を吐露した詩だという解釈もある。

 とにかく蓮には露がつきもので、美しくもはかないものの象徴とされていた。それが日本にも伝えられ、和歌の世界でも漢詩で詠まれた本意を踏襲して、「露を宿した蓮の葉」と言ってはかなさをうたう題材とし、「泥中の清楚な花」と称して濁世にあっても穢れない存在の象徴として歌い上げる、ある種の定型化が進んだ。それに、インド原産の蓮は仏説、仏典と深く結びついていたから、「清浄無垢のシンボル」「仏の座」といった抹香臭いニュアンスも付け加わっていった。

 昔から日本人に馴染の深かった蓮に、このような解釈が付け加えられていって、蓮は日本の詩歌にもどっかりと腰を据えた。蓮という植物が春から冬に至るまで、さまざまに姿や形を変えるところが、和歌や俳句の格好の材料になるという面もあった。

 まず春の季語としては「蓮植う」がある。4月頃、もっぱら蓮根栽培用に田や溜め池に2節ぐらいに切った蓮根を埋め込む。これが「蓮植う」である。『蓮植ゑし額に乾く泥しぶき 広瀬一朗』という難作業である。

 5月、初夏の頃、小さな円形の葉が水面に浮いて来る。その形から銭葉と呼ばれるが、一般には「蓮浮葉」という初夏の季語が定着している。その銭葉のあとから、水面に大きな巻葉が太い茎と共に斜めに立ち上がり、やがて広大な緑葉を開く。葉の縁が波打つような形で、上面に朝露を転々させるようになる。『はちす葉のにごりにしまぬ心もてなにかは露を玉とあざむく』(僧正遍昭・古今集巻3夏)。そして淡紅色や純白の「蓮の花」を咲かせる。盛夏である。

 花が咲いた後には実がなる。すーっと立った茎の先端に咲いた花が散ると、ジョウゴ型の果托ができて、上面には蜂の巣のような穴がたくさん開いている。その穴の中に一粒ずつ種が入っている。この実の形が蜂の巣そっくりなので、古代日本人はこの植物に「ハチス」という名前をつけた。それが「ハッス」と促音化して、平安時代頃に「ハス」に縮まったのだと言われている。ただし「ハチス」という呼び名も今日まで連綿と生き残っている。

 この種子が黒く熟すと、ポーン、ポーンと飛び出して水中に散らばる。宝暦(1750年代)から天明(1780年代)に活躍した福井生れの俳人堀麦水に『静かさや蓮の実の飛ぶあまたたび』という名句がある。「蓮の実」「蓮の実飛ぶ」は仲秋の季語である。

 それより少し前、花がまだ残っている旧盆の頃、もち米を蓮の葉に包んで蒸す「蓮の飯(荷飯)」を作る風習があった。昔は旧暦の盆に「生御霊(生身魂)」ということをした。お盆は死んだ人たちの魂を慰める行事だが、それと並んで「生きている御霊」すなわち両親、仲人、恩ある先輩など、お年寄に感謝を捧げる風習である。その時のしるしに、蓮の葉で包んだ蒸しおこわを差し上げた。もちろん、お年寄に差し上げると同時に家族そろって食べるのである。

 もう一つ別の「蓮飯」もあった。文化文政頃、上野不忍池などでは蓮の花見が盛んになり、池ノ端には茶店が立ち並び、そこで供された蓮御飯である。これは蓮の若葉を湯がいて刻み茶飯に炊き込んだものである。こうして「蓮の飯」「荷飯」という初秋の季語が生まれた。

 そうこうしているうちに秋も深まり、蓮の葉も黄ばみ、やがて茶色に枯れてくる。葉は裂け目ができたりして、ずいぶんだらしが無くなってくる。これが晩秋の季語「敗荷(やれはす)」「破蓮(やれはちす)」である。破れた蓮の葉が風に鳴り、蕭条とした風景が現れる。もう冬はすぐそこである。

 敗荷の状態がさらに進み、黄ばんだ葉は黒褐色に変わって、しゃんとしていた茎も力を失い、ぽきりと折れていく。「蓮枯るゝ」という冬の季語の誕生である。その頃、千葉、埼玉、茨城など首都近郊の蓮田では水を落とし、歳暮、新年用のレンコンを一斉に堀出す。「蓮根掘る」である。

 蓮根を掘り出した後の蓮田や自然の蓮池には、取り残された蓮の葉や茎が黒褐色に折れ曲がり、半分水につかったりしながら無惨な姿をさらす。「枯蓮」の風景である。それはまさに刀折れ矢尽きて果てた戦場の跡を見るようである。古来、枯れ蓮を眺めた人々がそうした思いを抱いたせいであろうか、枯蓮の傍題として「蓮の骨」という季語もある。今日でも11月末から12月の上野不忍池あたりは枯蓮の光景が見られる。

 枯蓮の景色は荒涼として、寂しい感じを与える一方で、妙な明るさもある。折れ曲がり水中に半ばを没した枯蓮の茎の間を鴨がすいすいと泳いでいる。水は澄み、空もきんきんと澄み切った青空である。一切が終わって、何もかも無くなった、あっけらかんとした気分でもある。


  蓮枯れて夕栄うつる湖水かな   正岡子規
  蓮の骨日日夜夜に減りにけり   青木月斗
  枯れ蓮のうごく時きてみなうごく   西東三鬼
  枯蓮に昼の月あり浄瑠璃寺   松尾いはほ
  肱曲げて家に在り蓮枯れにけり   永田耕衣

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