鴨(かも)

 鴨という鳥は全世界にいる。カモ目カモ科に分類される鳥はざっと120種類に上る。日本でよく見かけるのはマガモ、オナガガモ、コガモなど主として湖沼に住んで穀物を好む種類と、スズガモ、ホオジロガモ、アイサなど海を主たる居住区として魚が主食とする類に分けられる。また、カルガモやオシドリのように1年中、日本国内に居着いている留鳥もいる。無論、この留鳥は季語にならない。

 鴨は秋になると北の方から飛んで来て、人里近い湖沼や海岸に群棲し、春になると帰って行く。雁と並んで季節感を呼び起こしてくれる鳥であり、古くから日本人に親しまれて来た。日本人ばかりではない、中国人にも西洋人にも古くから馴染の深い鳥である。詩歌にも数え切れないほど登場してくるのだが、悲しいかな、その肉が美味なるが故に、洋の東西を問わず鴨と来れば歌の文句よりも先に料理のレシピが浮かんで来てしまうきらいがある。

 鴨があまりにも美味しいものだから、これを年中食べたいと、食いしん坊が苦心の末に家鴨(あひる)というものを作り出した。家鴨という家禽を作り出したのはやはり中国人のようである。例の北京ダックの材料のペキン種である。

 マガモを何世代にもわたって飼いならし、餌を食えるだけ食わせて太らせ、ついには「大型で重くて飛べない」新品種の鴨を作り出してしまったのである。  さらには、家鴨と鴨を掛け合わせ、肉質の締った食肉専用の合鴨というものも生み出した。家鴨も合鴨もガアガア鳴いて地面を不器用に歩くだけで、泳ぎは得意だが飛ぶことはできない。しかし鴨の末裔であることの何よりの証拠が、家鴨や合鴨をオトリに放して置いた池には野生の鴨が次々に舞い降りる。

 「播磨国風土記」という書物が和銅6年(713年)に編纂された。日本で作られた書物の中で現存する最も古いものの一つだが、これに早々と鴨が登場している。

 品太天皇(ほむだのすめらみこと=応神天皇=5世紀前半の天皇)が今の兵庫県加西市あたりを巡幸された時のこと、大きな樹木に鴨がとまった。鴨が木に止まるというのはあまり聞いたことがないが、そう書いてある。

 とにかくそこで品太天皇はこの鴨の住む地域を賀毛の郡と名付け、家来に鴨を射させた場所を鴨谷、鴨坂と呼び、それを羹(あつもの=吸い物)に作らせた所を煮坂と呼ぶようになった、と記されている。要するに、応神天皇が兵庫県の加古川流域を旅した途中で、捕まえた鴨を吸い物にしたところ、とてもおいしくて喜ばれたというわけだが、これが我が国の書物に出て来る最初の料理記事だという。

 時代は一気に下って江戸時代。井原西鶴の「日本永代蔵」の巻4の1「祈る印の神の折敷」という話によだれの出そうな鴨料理が出て来る。京都の染物屋が主人公で、夫婦して一生懸命働くのだが暮らしは一向に豊かにならない。少々自棄になって、正月の床の間飾りに福の神ではなく、貧乏神のわら人形を据えて七草の日まで毎日拝んだ。

 人間に拝まれたことなどついぞ無かった貧乏神はすっかり喜んで、七草の晩に染物屋の枕辺に立ち、「紅染め」のヒントを与えた。それをもとに夫婦が染めた紅染めが大評判を取り、それ以後商売はトントン拍子に上向き、「京にかくれなき桔梗染屋」となるという話である。

 貧乏神が染物屋にあれこれ語るくだりに、当時の金持階級に流行していたらしい鴨料理が出て来る。曰く、「(近ごろは金持の家にたまたま入ったりすると)朝夕の鴨膾、杉焼のいたり料理が胸につかへて迷惑……」というのがそれである。

 「鴨膾」というのは、皮をはいだ鴨肉を薄切りにして沸騰した酒にさっと潜らせ霜降りにし、わさび酢をかけた料理である。トリワサならぬカモワサ、あるいは鴨の酒しゃぶといったところである。

 「いたり料理」というのは「至れり尽せり」の「至り」から来た言葉であろうか、粋をこらした料理という意味である。「杉焼」は今日でも高級な料理屋で似たものを出すことがあるが、木の香もかぐわしい杉の箱を湿らせ、底に塩を塗り付けて炭火にかける。その中に酒と出汁で溶いた味噌を入れ、そぎ切りした鴨肉、葱、くわい、山芋など季節の野菜を入れて煮焼きする。杉の香が鴨肉の臭みを消し、鴨の味と脂が野菜に乗り移り、味噌の焼ける香ばしさと相まって至極凝った味になる。町人文化が花と咲き始めた貞享・元禄時代(1600年代末頃)、日本料理は既にこんなにも高いレベルになっていた。

 西洋の鴨料理に話を転じよう。世界最古の料理本は、古代ローマ時代の貴族アピキウスが自身で拵えたり食べたりしながらメモした「調理ノート」だと言われている。

 アピキウスという人はローマ皇帝ティベリウス(在位AD14─37)の友人で、金にあかして美味をあさった大食通。あまりに野放図な贅沢三昧を哲学者のセネカやタキトゥスが猛烈に批判攻撃したという。とにかくその「メモ」に後代の料理人が付け加えてふくらましたものが、「アピキウスの調理ノート」として残っている。平成7、8年頃、その訳本が小学館から出された。

 その中に鳥料理もいろいろ出て来る。鶴やフラミンゴまである。しかしやはり定番は鴨料理である。時間を見つけてぜひ作ってみたいと思っているアピキウスの鴨料理のレシピを紹介しよう。

 (1)丸のままのカモを洗って塩とディルを擦り込み、形を整え鍋に入れ、水を注いで肉が締まる程度まで下ゆでする。(2)カモを別の鍋に移し、油、カルム(魚醤)、オレガノとコリアンダーの束を加えて煮る。(3)少し煮たところへ、予め3分の1量にまで煮詰めたブドウ液を入れて色付けし、一旦火を止めておく。(4)もう一つの鍋でソースを作る。胡椒、ラヴィッジ、クミン、コリアンダー、シルフィウム、ヘンルーダ、及び煮詰めたブドウ液、蜂蜜を入れ、ハーブ類をすり潰しながらよく混ぜ、カモの煮汁を加え、酢を適量入れて火にかけ温めながら混ぜ合わす。(5)できたソースをカモの入った鍋に入れてひと煮立ちさせ、澱粉でとろみをつける。(6)大皿にカモの丸煮を盛り、上からソースをかけて供する。

 とても旨そうである。ただし、ハーブ類をやたらに入れるから、量を加減しないと大変なことになりそうだ。それにブドウ液と蜂蜜だから、かなり濃厚な味であろう。塩とディルをすり込んだカモを茹でる前に、さっと炙るか炒めておくと日本人好みの香ばしさが出るかも知れない。

 アピキウスのカモはあまりにもしつこそうだ、という向きには、水牛流鴨鍋をお勧めする。

 まず大ぶりの土鍋に、昆布でとった出汁7に日本酒3くらいの割にしたものを7分目ほど入れ、薄口醤油を濃いめの清まし汁になる程度注ぎ、煮立たせる。沸騰したら、そぎ切りにした鴨肉か合鴨肉を入れ、ざく切りの水菜(本当は葉にぎざぎざの無い、丸葉の京壬生菜がいいのだが、東京近辺ではなかなか手に入らない)を入れて、さっと熱が通ったところで、肉と水菜を取り出して食べる。これだけのことなのだが、いくらでも食べられる。鴨のつくね団子をこしらえて入れればさらにコクが出る。

 本来この鴨鍋は鍋に酒をどぼどぼと注ぎ、沸騰したところへ適当に醤油を注いで味付けし、鴨肉と壬生菜を入れて煮えばなを食べる。いわば「鴨の酒鍋」である。出汁などの余計なものを一切入れないから、鴨と壬生菜の旨味がじかに伝わって来る。江戸の料理本にこれを見つけて、これぞ純正鴨鍋と膝を叩いて早速試した。

 予想通りこの鴨鍋は旨かったのだが、アルコールに弱い体質の家人はもうもうと立ち込める酒の香を吸込んで気分が悪くなり、食べる前に寝込んでしまった。さんざん恨み言を言われて考え出したのが前記の酒3、出汁7の割合である。このくらいだと、沸騰すればアルコールはほとんど蒸発してしまう。

 壬生菜も京菜もなければ、小松菜でもいい。小松菜を洗いながら太い茎の部分を折って、しゃもじ型の緑の葉の部分だけを鍋に使う。葉っぱだけなので一人一把くらいは欲しい。軸の方は適当な長さに切っておき、鴨鍋の汁がやや濃厚になってきた頃に入れて食べるといい。しゃりしゃりした歯ごたえで、なかなかいける。

 もう鴨肉はおしまいという頃合に豆腐を入れても旨い。最後は残りの菜っ葉や軸と饂飩を煮て、刻み葱をぱらりと振って、締めくくる。

 何だか鴨という季語の研究と言うよりは、鴨料理の話になってしまった。少しは季語研究らしく体裁を整えなければなるまい。

 鴨は雁よりやや遅れて、晩秋から冬にかけて北方から日本列島に渡って来る。人間の住む近くの湖沼や浜辺近くに群をなして棲み、人目につくことが多いせいか、万葉集の時代から和歌の素材になり、俳諧にもたくさん詠まれている。

 池や沼に寒夜首を羽交いの下に突っ込んで寝ている様子などから、「寒さ」「氷」「霜」などを連想する歌材となった。遠くから渡って来て春になるとまた故郷に帰って行くところから「望郷」「懐郷」の象徴としても詠まれるようになった。また鴨の群の騒がしい鳴き声や、一羽で鳴く寂しそうな声など「鴨の声」が取り上げられることも多い。さらに雌雄の鴨が寒夜身体を寄せ合うように枯れ蘆の中に眠るさまから、「情愛」の象徴ともなっている。


  海くれて鴨の声ほのかに白し   松尾芭蕉
  鴨啼くや弓矢を捨て十余年   向井去来
  水底を見て来た顔の小鴨かな   内藤丈草
  くるくると堀江の鴨の浮寝かな   各務支考
  古利根や鴨の鳴く夜の酒の味   小林一茶
  鴨啼くや上野は闇に横はる   正岡子規
  一湾や吹きをさまりて月の鴨   田村木国
  海に鴨発砲直前かも知れず   山口誓子
  貰ひたる鴨をしたたる雨雫   大野林火
  むしりいて鴨の死の脚手に触る   渡辺秋男

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