冬の夜の熱燗はこたえられない。夜遅くまで外を歩いていて屋台のおでん屋を見つけ、熱燗をきゅーっと一杯やると、本当に生き返った心地がする。
駆け出しの記者時代、半世紀も前の話だが、警視庁の捜査一課担当にさせられて往生した。コロシ・タタキ(殺人・強盗)の凶悪犯罪を捜査する部署が捜査一課である。当時、NHKが「事件記者」という人気テレビドラマを毎週放映していたせいで、世間は「花形事件記者ね」なんて言ってくれるのだが、現実はみじめなものであった。
大事件が起こるとマスコミ各社は一斉に事件現場に群がり、捜査本部の置かれた警察署には担当記者が張り付く。警察側は捜査の進展状況をいちいち明らかにしていたのでは、捜査の妨げになるばかりだから必死に隠そうとする。報道側は「国民の知る権利」をたてに情報公開を迫る。警察側はしぶしぶ一日一回、捜査会議が終わった夕方に記者会見を開き、その日明らかになったことを発表する。しかし発表内容は通り一遍のありきたりのもので、「本日のところはとりたてて発表できる新事実はありません」でおしまい。これでは記事の書きようがない。
そこで「夜討ち(夜回り)」が始まる。その事件を担当している刑事(デカ)の家に押しかけて話を聞くのである。デカさん、すなわち刑事警察の捜査官(警察官)には守秘義務がある。捜査中の事件に関することを第三者に漏らしたら罰を受ける。なまなかのことでは事件の話などしてくれるはずがない。それどころか夜討ちをかけても玄関を開けてくれないことの方が普通である。
毎晩空振りが続くといい加減うんざりし、気持が萎えて来る。さりとて放り出してしまうわけにはいかない。そんな夜遅く社に戻って、同じように空振りで浮かぬ顔の同僚と連れだって屋台の熱燗を引っ掛ける。腹の中から温まって来るにつれ、また元気が湧いて来るのだった。
酒を温めて飲むのは、中国の紹興酒で時々行われる他は世界中でもめずらしい。ヨーロッパの、特に東欧ではワインに蜂蜜や香料を入れて鍋で沸かすことをやるが、これは日本の卵酒と同じように特別なものである。晩酌で常用するワインやウイスキー、ブランデー、ウオツカなどは普通は温めたりしない。その点、日本酒というのは不思議な酒で、冷や(常温)でも旨いし、温めるとまた別の旨味や香りが立つ。人肌くらいにちょっと温めたもの、それよりやや高めのぬる燗、さらに熱燗と、温める温度によって同じ酒が千変万化する。
しかし、日本酒も昔は常温で飲むのが普通だった。燗酒の旨味を知ったのは江戸時代に入ってからのようで、さらに誰も彼もが燗をつけるようになったのは町民文化が爛熟した江戸後期、十九世紀初頭の文化文政時代からである。その頃になると陶磁器の食器、いわゆる瀬戸物が大量生産されて庶民にも手が届くようになり、徳利や盃やぐい飲みが大量に出回った。徳利に酒を入れて熱湯に浸けると簡単に燗をつけることができ、料理屋でも一般家庭でも燗酒が一気に広まった。徳利や持ち手のついた銅製・錫製のチロリを浸ける、燗付け専用の一種の鍋である銅壺(どうこ)というものも生まれた。さらには徳利(銚子)やチロリが二本ほど入る小型の銅壺をはめ込んだ長火鉢も出来た。囲炉裏のある農家などでは、底が尖った徳利を熱くなった灰に突き刺して酒を温めたり、あるいは側面に足が三つついて横倒しの形になる鳩徳利を火のそばに置いて燗をつけるといったやり方もとられた。
とにかくこんな具合に酒は燗をつけて飲むのが一般的になり、その風習が江戸末期・明治以降から現代まで引き継がれている。
燗にもいろいろある。近頃は好事家も多く、それに燗温計などという燗酒用の温度計まで売られるようになって、温度によって細かく名前が付けられている。曰く、三十度から三十三度程度は日なた燗、三十六、七度を人肌燗、四十度になるとぬる燗、四十五度は上燗、五十度が熱燗、五十五度以上を飛び切り燗と言うのだそうである。
しかし、こんな分類ほど馬鹿馬鹿しいものはない。第一、徳利を銅壺や鉄瓶から引き揚げた時には五十度だった熱燗も、盃につぐや否や冷え始める。しばらくテーブルの上に置いておけばすぐにぬる燗になってしまう。その上、飲む人のその日その時の体調によって、口に含んだ時の感じが熱くもぬるくも変わるし、辛口甘口など酒の質によっても変わる。
「常温(冷や)」「ぬる燗」「熱燗」の三分類で十分である。熱燗と言っても五十度くらいのものが好きな人もいようし、ひれ酒になろうかという六十度以上を好む人もいるだろう。要は自分の好みの温度を知って、それには徳利を熱湯にどのくらい浸ければいいのかをわきまえておけば、いつでも最良の燗酒が楽しめる。近頃は電子レンジで簡単に燗がつけられる。通ぶった奴は「電子レンジでは燗ムラが生じる」などと言うが、大して気にするほどのことはない。
と、ここまで書いてきてはたと気がついた。世の中は酒好きばかりとは限らないということをである。酒を好まない人には、大まじめで熱燗論議を繰り広げるなぞ愚の骨頂、どころか腹立たしさを覚えるに違いない。というわけでこの種の季語談義ははなはだやりにくいのだが、酒好きにとっては熱燗をぐいとやりながら句案の一つもやろうというのが冬場の大いなる喜びなのである。
熱燗に焼きたる舌を出しけり 高浜 虚子
熱燗や泣きぐせの友われも泣く 土師 清二
熱燗に応へて鳴くや腹の虫 日野 草城
燗熱し獄を罵る口ひらく 秋元不死男
熱燗や男同士の労りあふ 滝 春一
熱燗やいつも無口の独り客 鈴木真砂女
熱燗の加減のうるさかりし父 齊藤白南子
熱燗や弱気の虫のまだ酔はず 松本 幹雄
熱燗や人がよすぎてたよりなく 河原 白朝
熱燗や女なかなか負けてゐず 下村 梅子
熱燗の夫にも捨てし夢あらむ 西村 和子