冬の月(ふゆのつき)

 冬の太平洋岸は青天が多く、空気が乾燥し気温も低いから、夜空が澄み透る。そこに現れる月は満月にせよ三日月にせよ、青白く、寂しく、時には凄まじい感じを抱かせる。雪に閉じこめられた日本海側ともなると、雪原や雪の街並を煌々と照らす月はひときわ悽愴感を漂わす。しかし、冬の月は凄まじいけれども、美しい。

 古来、文人、歌人は秋の月を愛でる一方で、冬月の美に目をとめた。紫式部も「源氏物語」朝顔の巻の中で、「冬の夜の澄んだ月の光が雪と光り合っているところなどは、この世の外のことまで思いが走り、実に素晴しいものだ。それをすさまじきもの(殺風景で興ざめなこと)の例えに引く向きもあるけれど、とんでもないことだ」と冬の月の風情を称えている。

 俳諧にも当然それは受け継がれて、芭蕉とも親交のあった椎本才麿は「鳥は浮き魚はしづみて冬の月」と詠み、榎本其角は「この木戸や鎖のさゝれて冬の月」、与謝蕪村は「静なるかしの木はらや冬の月」と詠んだ。いずれの句も、寒気厳しく静まり返った中に、月が青白い光を凄然と放っている光景が浮かぶ。

 其角の句は「芭蕉七部集」中の圧巻「猿蓑」に出て来るものだが、編集に当った去来、凡兆は、其角の書いて来た「此木戸」が「此」と「木」がつながっているように見えたのだろう、「柴戸」と読み違えてしまい、「柴戸(しばのと)や鎖のさされて冬の月」という原稿を作ってしまった。後で芭蕉が気づいて板木を作り直させたというエピソード(「去来抄」)によって、一層有名になった。

 芭蕉は「柴戸にあらず、此木戸也」と後で気づき、「(「此の木戸」ということになれば)秀逸の句だから、たとえ板木を彫り終えていても、直しなさい」という手紙を大津から京都の去来に送った。

 後代のように活字を入れ替えればすむというような簡単なものではない。文字と文字のつながり具合によっては板木一枚を彫り直す必要も出て来る。そのため当時はささやかな間違いには目をつぶるのが一般だったようで、古俳諧には同じ句でも字の違うものや、てにをはの狂っているものがたくさん出て来る。現にこの時も若くて才気煥発の凡兆は「柴戸、此木戸、させる勝劣なし」なんて言っているが、凡兆は「此木戸」もやはり民家の木戸ととっていたようである。とにかく去来は師匠の指摘を真摯に受け止めて訂正した。「猿蓑」の版本には、明らかにこの個所に埋め木して訂正した形跡が認められるという。

 「柴戸や鎖のさされて冬の月」だったら、江戸郊外にでもある金持の隠居の別宅あたりの風景で、これはこれでなかなかの風情が感じられるものの、まあ普通の句である。しかし、「此木戸」ということになると雰囲気はがらりと変わる。眼前に鋲を打った城門の巨大な木戸が立ちはだかっている。錠ががっちりと下りて余人を寄せ付けない傲然たる構えである。そこに冬の月が冷たい光を放っている。見上げているのは、志未だならず悶々としながらも「やってやるぞ」と意気地を見せる青年其角。「冬の月」が城門と照応して、無音の中の粛然とした感じが伝わって来る。

 「冬の月」は初冬から晩冬まで通しての兼三冬の季語だが、取り合わせたものの時期に応じて、同じ「冬の月」と言ってもかなり趣が異なって来る。ことに新暦十二月から一月にかけての晩冬は寒さも強まり、冬月の凄みが一層増して来るようだ。そのころの月の感じを強く言うために「寒月」とか「月氷る」と詠むことも多い。また冬月の冴え冴えとしたたたずまいを際立たせる「月冴ゆる」という傍題もある。さらに冬の三日月は研ぎ澄まされた刃物のような、冷たく鋭い感じが際立つので、特に「冬三日月」「寒三日月」という季語になっている。


  目のひかる夜咄ずきや冬の月   森川許六
  寒月や僧に行き合ふ橋の上   与謝蕪村
  あら海に人魚浮めり寒の月   松岡青蘿
  寒月や喰ひつきさうな鬼瓦   小林一茶
  我影の崖に落ちけり冬の月   柳原極堂
  うちあげて津の町急ぐ冬の月   中村吉右衛門
  煙突と冬三日月と相寄りし   岸風三楼
  冬三日月屋台車に石噛ます   黒沢一太
  冬満月われの匂ひの中にねむる   寺田京子
  見張り猿ゐる絶壁の冬の月   畑中とほる

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