十一月八日は立冬。暦の上では冬だが、この頃はまだまだ秋の気分で、空も抜けるような青空である。しかし木々の梢を渡る風はかなりひんやりとして、朝晩は冷え込むようになる。やはり冬がやって来たのだという引き締まった意識と同時に、まだ秋の余韻を引きずっている気分を表す季語である。「もう冬なんだなあ、これからぐんと寒くなるぞ」と思う一方で、まだ年の暮れには間があるしといった気分であろうか。「初冬(しょとう、はつふゆ)」「冬初め」という季語と同様の意味合いである。
「冬浅し」が季語として確立したのはあまり古いことでは無いようである。江戸後期寛政時代の俳人井上士朗の「墨烏賊の届く便りや冬浅し」が古句では珍しい例で、近代になっても作例はあまり多くなく、虚子編の「新歳時記」にも独立した季語になっていない。なかなか響きの良い言葉で、もっと作られてもいいように思うのだが、忘れられてしまいがちな季語のようだ。
これは推測だが、「冬浅し」は早春を指す「春浅し」という季語に引きずられて生まれたのではないかという気がする。「春浅し」は古くから重要視されて一本立ちしているのに対して、「冬浅し」は歳時記によっては今日でも「初冬」の傍題として掲げられているに過ぎない。春は人々が今かいまかと待ち焦がれる季節だから、その気配をいち早く感じ取り、句にしようとする。ところがまだ周囲には冬の空気が重苦しく残っており、真っ向から「春」をうたう気分ではない。ということで「春浅し」がもてはやされる。これに対して「冬浅し」の方は、いくら冬になったからとは言え、冬を待ち焦がれていた人はそうそうは居ないから、わざわざ冬になったぞと詠むこともない。
どうしても「冬浅し」は「春浅し」に比べると分が悪い。しかし、初冬になって過ぎにし秋の余韻に浸ることは大いにあることで、そういう思いをうたう際に「冬浅し」の季語は捨て難い。今後名句が出て来る感じのする季語である。
「しょとう」「りっとう」という言葉はきっぱりとした響きがあるが、やや硬い感じを与える。もう少し情緒的にこの時期の季感を表わしたいという時、この「冬浅し」という季語が「はつ冬」「冬初め」と同様に使われる。特に「冬浅し」は秋から冬への季節の移り変わりに思いをこめる場合に用いられているようである。
「冬浅し」とよく似た季語に「冬めく」がある。これも初冬のことばで、いよいよ冬になってきたなあという気分を表している。冬浅しと比べるともうちょっと時期が進んで冬らしくなった頃合いであろう。また「冬めく」は、冬になると見られる風景、食べ物、人のしぐさなどを挙げながら感懐を述べる場合によく使われるのに対して、「冬浅し」の方はもう少し感覚的、情緒的な使われ方をすることが多いようである。「浅き冬」という詠み方もある。
墨烏賊の届く便りや冬浅し 井上 士朗
冬浅き月にむかひて立ちし影 久保田万太郎
冬浅き数日机上なにも置かず 橋 間石
薬師寺を出て冬浅き小砂利道 菅 裸馬
窯いづる陶や竹林の冬浅し 上野 泰
冬浅し鳥居のかげを芝に踏む 永尾 宋斤
蛍光灯唄ふごと点き冬浅し 藤田 湘子
冬浅し鳥居のかげを芝に踏む 永尾 宋斤
石棺の蓋濡れ色に冬浅し 河原 芦月
冬浅き靴の埃を払ひけり 川崎 展宏