昔は「年忘れ」と称して、1年を無病息災、無事に過ごせたことを互いに喜び合うために親戚知人を集め会食したり酒宴を行った。これで年を越せばみんな1歳年をとるのだという感慨もあったようである。
「年忘れ」はかなり大昔、室町時代にはもう行われており、連歌の会なども合わせて開かれた。今では年忘れという言葉はすたれ、もっぱら忘年会と言われるようになったが、伝統を尊ぶ俳句の世界では依然として「年忘れ」という季語が生きており、歳時記では「忘年会」は年忘れの項に傍題として載せられていることが多い。
旧暦の時代には日月火……という曜日が無く、休日は年に2回の薮入りと正月3が日などごく限られていた。現実には武士も町人も出番を作ってお互いにやり繰りしながら休日を取っていたようだが、公式には1年中労働日である。衣食住の環境も今と比べれば非常に厳しかった。病気や怪我をすればたちまち命にかかわるというのがごく当たり前の状況であった。人生50年と言われ、乳幼児死亡率が異常に高く、女性は出産という大仕事に体力を消耗し40歳になるやならずでばたばた死んだ。
こんな環境に置かれていたから、12月も下旬になり新年を迎える年用意が始まる頃になると、やれやれ今年も無事に過ごすことが出来たなあ、という安堵感がどっと湧き上がって来る。皆それぞれの思いを抱えながら相寄り、一献傾けたくなるのが人情である。貝原益軒の甥貝原好古が書いた「日本歳時記」(貞享5年、1688年刊行)には、「(十二月)下旬の内、年忘とて父母兄弟親戚を饗する事あり。これ一とせの間、事なく過ぎ仕りし事を祝ふ意なるべし」とある。まさにこれが実感であろう。
さて現代の忘年会。会社員は週休2日制、夏冬にはかなりまとまった休暇も取れる。商店経営や自営業も定休日を設け、夏季休暇を取ることも普通になった。昔を考えれば天国のようだが、世の中が複雑になったせいか日々の仕事はかなりきつい。レジャーの過ごし方も世間体というものがあるから半ば義務感でこなすという面が出て来たりする。公私共にストレスが溜まる仕掛けになっている。年末は昔通り、1年の締めくくりとされているから、非常に慌ただしい。あれやこれやに目鼻をつけて、やれやれというところで「忘年会」になる。
中には12月に入ると早々に、まだ年内に形をつけなければならない仕事がたくさん残っているのに、忘年会の誘いがかかったりする。付き合いの広い向きは「忘年会のハシゴ」をこなしたりする。それもこれも世のしがらみというもので、おつきあいできるのも元気な証拠である。会社の忘年会に始まって、親しい友人同士、趣味の集まり等々、いろいろな忘年会に出ては「来年もどうぞよろしく」。
昔の「年忘れ」にあったやや畏まったしんみりした雰囲気は薄れているようだが、気分はちっとも変わっていない。
半日は神を友にや年忘れ 松尾芭蕉
姥ふえてしかも美女なし年忘れ 榎本其角
独り身や上野歩行てとし忘れ 小林一茶
遅参なき忘年会の始まれり 前田普羅
拭き込みし柱の艶や年忘 久保田万太郎
スクランブル交叉忘年会はおもしろし 山口青邨
月まぶし忘年会を脱れ出て 相馬遷子
口裏を合せかねゐる年忘れ 石原八束
ぐい呑は不揃ひがよし年忘れ 五十崎朗
忘年やワインにゆるる海のいろ 山崎悦子