鮟鱇(あんこう)

 11月の声を聞くと鮟鱇鍋が恋しくなる。河豚も美味しいが、鮟鱇の奥深さには端倪すべからざるところがある。昔から「東の鮟鱇西の河豚」と言われ、江戸の通人のこよなく愛する冬の魚であった。古くは貝原益軒も「味良く上品」と褒めそやし、頼山陽は「河豚より旨い」と漢詩を詠んでいる。

 将軍のお膝元である江戸では、武士はもとより大商人や庄屋などと言われる上流階級の家庭では、「食物に当って死ぬのは恥」ということで河豚を口にすることがはばかられ、もっぱら鮟鱇が食されたという。

 一般に鮟鱇としてもてはやされる美味なキアンコウ(ホンアンコウとも呼ばれる)は主に関東以北で獲れ、関西から南に多いのはクツアンコウという小型で味の劣る品種である。一方、河豚と言えば玄界灘のトラフグを筆頭に関西以西のものが断然旨い。こうした棲息分布の違いが、江戸で「河豚より鮟鱇」と言われるようになった真因かも知れない。

 もっとも江戸にあっても、「あら何ともなやきのふは過ぎてふくと汁 芭蕉」とか「ふぐ汁やもやひ世帯の惣鼾 一茶」など河豚の俳句がかなり多く、当時から結構食べられていたようである。それに対して鮟鱇の句は江戸俳諧にはあまり見当たらず、「鮟鱇をふりさけ見れば厨かな 其角」が目につくくらいである。河豚は江戸前の漁師の網にかかると「外道(げどう、目当ての魚種ではないもの)」として捨てられ、もっぱら庶民の口に入ったようだから、貧乏な俳諧師にもおなじみだったのかも知れない。

 芭蕉がこの河豚の句を詠んだのは、故郷伊賀上野から一念発起、江戸へ出てきた寛文12年(1672年)からまださほどたっていない頃のことで、もちろん未だ宗匠の看板は掲げられず、水道工事のアルバイトなどして食いつないでいた。一茶の句の「もやひ世帯」とは長屋の1間に2家族が同居している状態を言い、貧乏も極まれりといったところであろう。こうしてみると当時は、河豚は食べようと思えばいくらでも食べられたが、鮟鱇はめずらしいもので庶民がおいそれとは口に出来なかった魚だったようである。

 アンコウ科に属す魚は全世界に数多く、アンコウ亜科、イザリウオ亜科、チョウチンアンコウ亜科の三グループに分かれ、ざっと265種類あるという。その中で鮟鱇鍋などになるのがキアンコウで千葉、茨城、福島沖から函館付近、朝鮮半島沿岸部で獲れる。水深100メートルから500メートルの海底に棲み、大きなものは体長が1.5メートルもある。ただし近ごろ日本近海で獲れるのは乱獲のせいか小型になり、60センチくらいのものが多い。関西から以南、インド洋、太平洋全域に分布しているのがクツアンコウで、姿形はキアンコウによく似ているが体長がせいぜい50センチにしかならない。

 鮟鱇は実にグロテスクな姿の魚である。上から見ると巨大な頭で尾にかけて尻すぼみになり、しゃもじのような形をしている。琵琶のようにも見えるので琵琶魚とも言われた。体全体がゼラチン質に蔽われた感じでぶよぶよしており、背面は茶褐色、腹側は黄色みを帯びた白色でぬめりがある。

 その体形からして泳ぎが上手でないことが分かる。普段は深い海底の砂原に平べったい身体をべたっと腹ばいにして、まるで砂原の一部か小岩にでもなったかのようにじっとしている。背鰭の前方の骨(棘)が一本一本ばらばらに離れ、それぞれがひらひらとそよぐ。最先端の棘は釣竿のように伸び、先には膜状のひれがついており、それを前後左右に揺り動かすと、あたかも餌虫のようである。そのやや後方、頭のてっぺんに2つの目玉がついている。

 こうして鮟鱇は悠然と寝そべりながら擬似餌の釣竿を揺り動かしていると、他の魚が寄って来る。獲物を十分に引きつけたと見るや、巨大な口をぱくっと開けて一気に銜える。逃げようとした魚は鮟鱇のびっしりと並んだ鋭い歯がばしゃっと上下に閉じられて一巻の終り。鮟鱇はそれを大きな胃袋に呑み込むと、またのんびりと次の獲物が寄って来るのを待つ。餌になる魚が警戒して寄り付かなくなったりすると、左右についている櫂のような胸鰭を前後に動かし、海底を匍匐前進するように泳ぎ、適当な場所に移動して、また待ちの姿勢に入る。こんな生態から英国人は鮟鱇をAnglerfishと名付けた。釣竿に擬似餌をぶら下げて魚をおびき寄せる「釣師魚」というわけである。Monkfishという呼び名もある。モンクとは修道士のことである。ずんぐりむっくりして黒っぽい鮟鱇の姿が、頭巾のついたマントのような僧衣にすっぽりと身を包んだ坊さんを思わせるところから名付けられたものであろうか。

 鮟鱇は夏から秋にかけては深海に棲息しているが、秋も深まると、春から初夏の産卵期目ざして徐々に浅海に移動する。10月下旬頃には水深100メートルから5、60メートル辺りにやって来る。そこを底引き網や刺し網で獲る。11月から2月頃までが脂ものって一番旨くなる。

 いつも海底でぐうたらしながら日を暮している鮟鱇も、冬場はずいぶん浅いところまでやって来て、不器用ながらかなり活発に餌をあさる。悪食だから魚はもとより、タコでもイカでも目の前に来たものは何でも呑み込んでしまうようである。鮟鱇が貪食な魚であることをつくづく悟ったのは、次のような奇妙な体験からである。

 私は生れも育ちも横浜だが、昭和20年5月29日の横浜大空襲で家を焼かれ、千葉県千葉郡犢橋村(現在は八千代市と言うのだろうか)というところで伯父が経営していた鷹の台ゴルフ場に疎開した。もちろんその当時はゴルフなぞは敵性運動競技として目の敵にされ閉鎖されており、芝生はすべて引っぱがされて芋畑や麦畑になっていた。コースの中の古びた休憩所に即製の床を取り付けムシロを敷いただけのあばら屋に、一家7人4年間の辛い疎開生活を送った。

 田舎だというのに疎開者は常に食糧不足で、3度の食事はサツマイモか大根や藷の蔓を炊き込んだ悪臭のするご飯だった。おかずも野菜ばかりで、時々目刺でも出れば大御馳走というありさまで、タンパク質が決定的に不足していた。

 そんなある年の冬、父の従兄弟で千葉市で自動車販売修理会社をやっていた人から大きな鮟鱇が丸ごと一尾届けられた。その人は戦時中は木炭や薪を燃やして走る代用燃料車(ダイネンシャ)を手がけて儲け、戦争が終わると復興にはまず自動車というわけで、寄せ集め部品で何とか走る車をこしらえては売るというような商売で結構羽振りが良かった。その社長さんの趣味が狩猟で、戦後解禁されたばかりの鴨猟に千葉港から厳冬の東京湾に出た。

 日中戦争の始まり蘆溝橋事件(1937年)あたりから散弾銃をぶっ放すことなどが禁じられていたためか、戦後間も無くの東京湾は鴨の天国で、下手な鉄砲でも撃てば必ず当るという具合だったらしい。撃たれた鴨はばたばたと波間に漂う。それを船頭が大きなタモ網ですくい上げるのだが、どういうわけだかタモ網に巨大な鮟鱇がかかった。「秀さん(亡父)は魚好きだから」と、おすそ分けの鴨と一緒にその鮟鱇も我家にやって来たのである。

 「まずは久し振りの鮟鱇鍋だ」と嬉しそうな父は、見よう見まねの吊し切りを始めた。食い意地の張った私は固唾を呑んで見守る。何しろ慢性栄養失調状態の真冬に鍋物というのだから、子供心にもワクワクしていたのである。

 吊し切りの作法は、まず鮟鱇の頭の処に切り口を入れ、そこから皮をはいで取って置き(鮟鱇は皮がとても美味しい)、胸鰭をはずし、次に内蔵を取り出し、最後に身を切り取るという手順のようである。つまり順序よく丁寧に鮟鱇を裂きながら、皮、トモ(鰭)、えら、水袋(胃)、キモ(肝臓)、ヌノ(卵巣)、柳肉(頬肉、身肉)という、いわゆる「鮟鱇の七つ道具」を綺麗に切り取るのである。もとよりそんなことを知らない父は、いきなり鮟鱇のあごの下に出刃を入れ、ぷっくりふくらんだ腹部を切り裂いた。

 どばっと大量の水が噴き出すとともに、何と腹の中から一羽の鴨が躍り出た。これにはびっくりした。まだ羽もつやつやと輝き、まるで生きているようである。

 どうやら餌を求めて海面近くまで上って来た鮟鱇が、撃たれてばたばたやっている鴨を一気に呑み込んだものの、腹がふくれていきなりは潜れずにいたところをタモ網に掬われてしまったというわけらしい。とにかく我家はおかげてそれから数日間は鮟鱇料理のいろいろと鴨料理で極楽気分を味わった。もちろん鮟鱇の腹中から出た鴨も大事に食べた。「一石二鳥と言うけれど、一弾魚鳥とはなあ」と父がしきりに唸っていたのを思い出す。

 こんな不思議なことがあるのだろうかと、この時の光景を思い出すたびに考えた。何しろ鮟鱇という魚は深海魚という観念があるから、それが鴨を呑むというのは理屈に合わないのではないかと思ったのである。

 長い間疑問が解けずにいるうちに、この出来事そのものの記憶も薄れていった。そうしたらある時、末広恭雄という魚博士の書いた「魚の博物事典」(講談社学術文庫)を読んで、疑問がいっぺんに氷解した。この本のアンコウの項目に、昭和11年2月に宮城県塩釜沖で獲れた鮟鱇の腹中からウミガラスが出て来たという記述を発見したのである。アメリカ東海岸でも同様のことがあったとも書かれていた。極めて稀なことだが、そんなことがあっても別に不思議ではないことが分かって何だか胸のつかえが下りたような気になった。

 鮟鱇の本場は茨城県北東部から福島県にかけての太平洋岸で、特に北茨城の大津港、平潟港、福島県いわき市の小名浜港あたりに水揚げされるものが有名である。深海魚の特徴として水揚げ後、鮮度の落ちるのが早い。これも流通手段がお粗末だった昔、鮟鱇が一部にしか出回らなかった原因である。今日でもなるべく地元で取れたてを食べるに越したことはない。

 冷凍・冷蔵技術や輸送手段が発達し、東京はじめ大都市で鮟鱇が自由に食べられるようになると、その旨さを知った人たちが争って買うようになった。もともと群棲している魚ではないから「鮟鱇漁」というものはない。他の魚種に混じって獲れたものが細々と流通していたわけだから、たちまち品不足に陥った。当然値段も跳ね上がり、今ではキロ当り2000円以上、年末の忘年会シーズンともなると3000円、5000円にもなる。完全な高級魚である。そこでこのところどっと増えて来たのが輸入物。中国産が主で、韓国産、アメリカ産もある。これらの輸入物は下拵えされたものが鍋用としてパック詰めにされ、割に安く店頭に並ぶ。

 鮟鱇と言えばまず鍋物である。鮟鱇鍋には(一)鰹節と昆布でとった出汁に醤油、酒、味醂で味付けした割り下を作り、これを張った鍋に湯引した鮟鱇の七つ道具と葱、白菜、春菊、生椎茸、人参、白滝などを入れて煮る、(二)鍋の中身は同じだが、割り下ではなく昆布出汁だけで煮て、紅葉おろしのポン酢醤油につけて食べる「水炊き風」、(三)鮟鱇の肝(もちろん生のもの)を適当に叩き切って鍋に入れて空炒りし、味噌を入れて練り混ぜ、呼び水程度の水をそそいで鮟鱇の七つ道具と野菜を入れる。鮟鱇と野菜からしみ出た水分で全体が煮えたところを食べる、という三種類がある。

 最初の醤油味の鮟鱇鍋は神田須田町の老舗「いせ源」で出しているように、江戸前の鮟鱇鍋である。これはこれで上品で美味しいが、何となく物足りない感じである。ことに最近のように鮟鱇が高値になったせいか、心なしか鮟鱇そのものが少なくなってぱらぱらと野菜類の陰に隠れてしまい、何ナベを食べているのか分からなくなりそうである。二番目のちり鍋は、あっさり風味が持て囃されるようになったこの十数年来の流行りである。これも悪くはないが、こういう風にして食べるのなら、何も鮟鱇でなくとも良く、河豚ちりか旬の真鱈を用いた鱈ちりの方に軍配が上がる。

 やはり鮟鱇鍋は三番目の、肝と味噌を練り合わせたもので炊くのが断然旨い。これは元々は北茨城平潟港の漁師の鍋で、「どぶ汁」と言われていた。水を使わず、鮟鱇と野菜からしみ出る水分で仕立てるのだから、否が応でも鮟鱇の持ち味が濃厚に出て来る。

 どぶ汁の裏方にして実は主役でもあるのが肝である。これと味噌がどろどろに溶け合った汁の中で煮えた鮟鱇と野菜は何とも言えない厚味を感じさせる。少々重い東北の地酒にしっくりと合う。

 しかし本来のどぶ汁はアクもかなり強く、都会の客からはしつこいという評もあるようだ。それにも増して、鮟鱇の肝が「海のフォワグラ」などと称されて、これ単独で高値がつく貴重品になったから、最近は鍋に使用する肝の量を減らすようになったようである。その補いに昆布出汁、醤油、味醂、酒を入れている。この方が口当たりがいいから、近ごろは北茨城やいわきの本場でも改良版の「どぶ汁風」鮟鱇鍋がもっぱらのようである。

 ぷよぷよした鮟鱇の肝臓に適宜切れ目を入れて冷水でそっと血抜きをしてから、形を整えて酒を少し振りかけて蒸し器で蒸すと「あん肝」が出来上がる。これを冷蔵庫で冷し固めたものをスライスしてポン酢につけて食べる。「海のフォワグラ」とはよく言ったものである。濃厚な味わいでありながらフォワグラよりあっさりしている。芳醇な少し甘口の日本酒にうってつけの肴である。

 「とも和え」というこれまた旨い鮟鱇の食べ方がある。鮟鱇の肝を炒り、そこに味噌と酢、砂糖、味醂を適当に加えて練り合す。これが「とも酢」である。鮟鱇の七つ道具を熱湯に潜らせて湯引しておいたものを、この友酢にちょっとつけて食べる。これも実に旨い。

 鮟鱇は不思議な魚で、皮や内臓が旨く、身はもう一つである。しかし、身も唐揚げにすると歯ごたえがあって、深い味わいがにじみ出て、とても旨い一品となる。さらに新鮮な鮟鱇の身を削ぎ切りにした薄造りに小葱を巻いて酢醤油をちょっと垂らす、鮟鱇の刺身は応えられない。これを乗せて握った握り鮨も旨い。ただしこうした食べ方が出来るのは水揚げ漁港のちゃんとした寿司屋である。東京あたりでこれを食べようと思えば、かなりの覚悟が必要になろう。もっとも東京あたりでこんなものを食べようというのは成金趣味もいいところで、粋とは言えないような気もする。


  鮟鱇もわが身の業も煮ゆるかな   久保田万太郎
  とめどなき大鮟鱇の涎かな   岡田耿陽
  鮟鱇の骨まで凍ててぶち切らる   加藤楸邨
  身を剥がれゆく鮟鱇の眼ありけり   牧野廖々
  イエスより軽く鮟鱇を吊りさげる   有馬朗人
  鮟鱇の吊されてゐて笑ひけり   飯山修
  悪名もいまはむかしの鮟鱇鍋   鈴木真砂女
  鮟鱇鍋ひとの大金懐に   橋本花風
  鮟鱇鍋稼ぎし日銭夜を越さず   賀本魚山
  鮟鱇鍋共につつきて世に出でず   渡辺志水

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