晩秋の伝統的な季語。十月末から十一月七、八日頃の立冬直前までの、秋が去ってゆく時季を言う、寂寥感の籠った言葉である。
秋は天高く澄みきって、爽やかな、一年中で最も気分がいい季節。嬉しい実りの時でもある。しかし、もう間もなく、厳しい冬が足早にやって来る。つい先頃まで、残暑だ秋暑しだと言っていたのに、いつの間にか朝晩ぐっと冷え込むようになった。山の木々の色も少しずつ変わり始めた。
観覧車に乗って、下からだんだんと昇って行くのを春だとすれば、秋はてっぺんから徐々に下って行くような趣がある。ああこれで籠りの季節に入って行くのだなあという、残念な、惜しむ気持が湧いて来る。これを直接述べた「秋惜しむ」という季語もあるが、同じことでも「行く秋」という方が奥行きがあるように思う。
「行く秋」は、晩春の季語「行く春」と対になっている。同じように、「秋惜しむ」に対しては「春惜しむ」がある。「行く夏」や「行く冬」、あるいは「夏惜しむ」「冬惜しむ」という季語は無い。夏や冬という厳しい季節は、過ぎ行くのを詠嘆を込めて見送ったり、惜しんだりする詩的感興が湧かないからである。しかし近ごろは、本来無いはずの「行く夏」や「冬惜しむ」といった言葉を用いて句を作る人も現れている。エアコンが行き渡り、快適な夏冬を過ごすことができるようになり、夏のレジャーやウインタースポーツなど、楽しい思い出がたくさん生れるようになったからであろう。しかし、こういう場合には、何も「行く夏」などといった伝統的な措辞を踏襲することなく、「夏終る」などの新しい季語を生んでゆくべきであろう。
「行く秋」は江戸期の俳諧に沢山詠まれ、重要な季語になった。芭蕉は『奥の細道』の終着点大垣で「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」と詠んだ。元禄二年(一六八九年)八月下旬、芭蕉は全行程六百里を踏破して大垣にやって来た。元禄二年は閏月のはさまる年だったから、八月末というのは今日のカレンダーで言えば十月下旬、まさに行く秋の頃であった。
当時の大垣は俳諧の盛んな土地柄で、芭蕉の門弟も大勢いた。近隣からも大勢駆けつけて来て、こうした弟子たちの温かいもてなしに、芭蕉は心身ともにときほぐされた。しかし芭蕉は一生を旅に過ごすと決めているから、ここからまた旅を始める気である。九月六日、二十年ごとに行われる伊勢神宮の改築(遷宮)を見ようと、親しい人たちに別れを告げて伊勢へと出立する。その別れを「行く秋」と共に詠んだのである。
そういう背景を知った上でこの句を読み直すと、なるほどなとは思うけれども、それほど深い感銘を覚えない。「行く秋」の季語もさしたる働きをしているとも思えない。
確かに技巧が凝らされている句ではある。まず蛤は伊勢あたりの名物である。「ふたみにわかれ」というのは、二見浦と蛤の蓋と身を掛けたものである。ハマグリが蓋と身に別れるように、別れたくない親しい人たちと会ってすぐに別れなければいけない辛さよ、時あたかも秋の終り、行く秋を惜しむように私も皆に別れを告げてまた旅に出て行くのだ、という意味合いであろう。「わかれ行く」と「行く秋」を掛け詞ともしている。
自らを旅の詩人と規定した芭蕉は、名声定まったところで、身の危険を呈してまで全行程二千四百キロ、半年になんなんとする「奥の細道」旅行を敢行した。この旅そのものが芭蕉にとっては芸術だったのであろう。その締めくくりとなる句は十二分に計算し尽したものであったろう。だからこそ掉尾の句は、奥の細道出立の時の千住でうたった句「行春や鳥啼き魚の目は泪」に対応する「行く秋」でなければならなかった。しかし芭蕉も人の子、ましてや門弟と称する中には大切なパトロンもいる。人情にほだされて、その人たちとの「別れ」なぞを一緒にしてうたってしまったが故に、句がしまらなくなってしまった。
この句と、「行く春を近江の人と惜しみける」を比べてみれば、句の優劣は自ずから明らかである。「行く秋」の句で比べるなら、奥の細道より前の、蕉風を確立した貞享年間の作「行秋や身に引まとふ三布蒲団」の方により好感を覚える。
まあそういったことはともかくとして、俳聖と言われた人にとっても、「行く秋」という季語は「行く春」と共にずしんと来る言葉だったようである。しかし、「行く春」の後に続くのは晴れ晴れとした初夏、「行く秋」の後は凍える冬、この違いはずいぶん大きい。「行く秋」には、季節を惜しむ気持がより一層強く、四囲の景色を眺めるにつけ寂しさがつのり、それにつられて物思いにふけるようにもなる。この万感胸に迫る、ということが「行く秋」の本意である。
傍題として「秋行く」「残る秋」「秋暮るる」「秋の別れ」「秋の名残」などといろいろある。
行秋や梢にかゝる鉋屑 内藤 丈草
行秋や抱けば身に添ふ膝頭 炭 太祇
行秋の鴉も飛んでしまひけり 正岡 子規
行く秋や博多の帯の解け易き 夏目 漱石
ゆく秋や何をおそるゝ心ぜき 久保田万太郎
行く秋の噴煙そらにほしいまゝ 篠原 鳳作
ゆく秋やふくみて水のやはらかき 石橋 秀野
行秋の耳傾けて音はなし 高木 晴子
行く秋の虹の半分奈良にあり 広瀬 直人
行く秋の白樺は傷ふやしけり 赤塚 五行