夜長(よなが)

 秋になると暮れるのが早くなり、夜が長くなったように感じる。ことに秋の夜は静かに更けてゆき、コオロギの声などに耳を傾けていると、なんだか地の中に引き込まれそうな気分になる。

 夜が一番長いのは言うまでもなく冬至の頃であり、そこからすれば「夜長」は冬の季語になりそうなものだが、古来、秋の季語になっている。万葉時代の歌人たちも「秋の夜長」を歌に詠んでいる。すぐに明るくなって夜が明けてしまう夏の「短夜」に対して、涼しくなったと思ったら急に夜が長くなったという季節変化を感じ取って、秋の季語としたものであろう。

 一方、「日が短い」ということを表す「短日」は冬の季語である。「夜長」が秋で、「短日」が冬というのはどうもおかしい。同じことを裏返しに言ってるだけなのだから、秋にせよ冬にせよ、どちらかに統一したらどうだというのは理屈である。こういう、理屈には合わないことが俳句の世界には時々見受けられる。すべて、人間の抱く感じが主になっているところから来る食い違いである。

 十一月末から十二月に入ると、午後四時を回ればもうあたりが薄暗くなって来る。そうなると人はなんとなく追われているような、急かされているような感じになる。日が落ちると急に寒さを覚えて、心細い感じにもなる。そんなところから、「短日」はまさに冬の特徴を言い当てたものとして、冬の季語になったのではないか。

 それに対して「夜が長い」というのは、短日とはニュアンスがだいぶ異なる。夏場の「短夜」に対する「夜長」であり、「もの思う秋」の夜の長さなのである。もっと待って、冬の時候に入ってからの方が夜はもっと長くなるのだが、はじめて「ああ夜が長くなったな」と感じた時、それがすなわち秋の「夜長」なのである。

 このしみじみとした感じを抱かせる秋の暮れ方から夜更けに至る時間経過は、人々の詩心をかき立てる。そのせいか、「秋の暮」という大きな季語に始まって、「秋の宵」「秋の夜」と丁寧に時間を追う季語が成立している。「夜長」はそれらをひっくるめて、物思いにふけってついつい寝そびれては感じる夜の長さを言う言葉と捉えることができる。


  山鳥の枝踏みかゆる夜長かな      与謝 蕪村
  鐘の音の輪をなして来る夜長かな    正岡 子規
  長き夜や孔明死する三国志       正岡 子規
  長き夜や生死の間にうつらうつら    村上 鬼城
  長き夜やひそかに月の石だたみ     久保田万太郎
  手枕のしびれて覚めてしんと夜長    篠原  凡
  先に寝し顔のかなしき夜長の灯     殿村菟絲子
  末の子の又起きて来し夜長かな     上野  泰
  鉛筆をけづる匂ひの夜長なる      杉野 一博
  うたせ湯に病む肩預け夜の長き     内田 安茂

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