昼間の仕事を終え、夕食を済ませてからする仕事を「夜なべ」と言い、晩秋の季語とされている。夜食の鍋を掛けながら仕事するから「夜鍋」と言ったとか、本来昼間行うべき仕事を休息時間である夜まで延ばして行うから「夜延べ」と言ったのが転訛したのだとか、いろいろな説があるがはっきりしない。夜業、夜仕事という言い方もある。
「サービス残業」などという言葉が生れて、サラリーマン、OLの間では残業がごく普通のことになっている。これも現代版の夜なべには違いないが、庶民階級にとって残業は1年中切れ目なく発生するものであり、秋の季語として扱うのには無理がある。「夜業人に調帯たわたわたわたわす 青畝」という句があるが、これは町工場の昼夜2交代か3交代かの本番の夜業であって、残業ではあるまい。
なぜ夜なべが秋の季語になったのかと言えば、まず第一に「夜長」の秋であること、第二に「収穫期」の秋で昼間の取入れ作業に続く仕事が山積することである。
日暮れが段々早くなると、どうしても早仕舞になり、あれもこれもが中途半端で夜間にもうひと働きしなければならない。特に昔の農村では秋の夜長にちゃんと夜なべをしたかどうかが、翌年の農作業ばかりか家計全体に大きく影響した。まず刈り取って脱穀した後の稲ワラで俵やムシロを編み、縄を綯い、草鞋や草履を作る。所によっては正月用の注連縄を作ったり、雪沓作りなども欠かせない。麻や木綿の糸繰りや機織り、糸や布をやわらかくするための砧打ちなどもあった。これらは無論、自家使用分もあるが、かなりの部分が換金用として作られた。こうして農村では秋の彼岸頃から春の彼岸の直前まで必死で夜なべが行われた。
町場でも職人には夜なべが付き物だった。ことに秋以降は暮れから新年用のあらゆる生活用品の需要が増大するから、書き入れ時であり、懸命に夜なべに励んだ。庶民階級のおかみさん連中も内職に精を出し、着物の繕い賃仕事などで連日の夜なべである。
要するに日本全体が貧乏で、夜も昼と同じように働かなければならなかった時代の習慣が「夜なべ」である。こう言うと身も蓋も無いようだが、向こう三軒両隣どこもかしこも夜なべをやっているのだから、別に不幸でも何でもない。こういう時代が日本では、開闢以来つい最近の昭和40年代まで続いていたのである。
だから「夜なべ」という言葉にはあまり暗さはつきまとわない。それよりも、夜なべまでして身を粉にして働く日々が続いた後の、「小正月」「薮入り」「秋祭」といった、たまの休日を迎える喜びと楽しさは今とは比べ物にならぬものであった。一生に一度の冨士講、大山参り、湯治などに行けるのも、夜なべの賜物である。
今日では俵はビニール袋になり、藁草履や雪沓などは民芸品扱いである。砧打ちなどは漢詩の世界だと思われている。新年用の晴着もアクセサリーも工場で作られ、時には外国から輸入される。注連縄、正月飾り、破魔矢なども中国製ということが多い。農家や職人が夜なべする必要は無くなり、主婦の下請け内職もほとんど姿を消してしまった。庶民が自由になる時間をいっぱい手に入れたのである。
「夜なべ」という季語が絶滅しかかっているのは、日本が豊かになった何よりの証拠であろう。しかし、眠い目をこすりながら夜なべに励んでいた昔の日本人が抱いていた満足・不満足感や喜び・悲しみと、今の我々が抱くのと、どのくらいの隔たりがあるだろうか。自分の人生の満足度を自己採点すると、どのような時代もそう変らないのではなかろうか。
眠りこけつつ尚止めぬ夜なべかな 高浜虚子
叱られて口笛やめし夜なべかな 斉藤俳小星
お六櫛つくる夜なべや月もよく 山口青邨
夜なべせる老妻糸を切る歯あり 皆吉爽雨
夜なべしにとんとんあがる二階かな 森川暁水
紬織る夜なべは島に嫁してより 井尾望東
曲り家に馬起きている夜なべかな 川越蒼生
夜業の灯消す鉄粉の暈の中 中島畦雨
夜なべして冷たき猫の抱き心地 野坂昭如
時計みる顔のふりむく夜なべかな 西山誠