山粧ふ(やまよそう)

 秋の山の景物は一に紅葉である。夏の間盛大に茂った落葉樹は秋の訪れと共に頂上の方から次第に色づいて来る。黄色、紅色が杉や松の緑の中に縞模様や斑点模様を描いて際立つ。この頃のあたかも山が化粧したような景色を「山粧ふ」(やまよそう)あるいは「山粧ほふ」(やまよそおう)と言う。姿をととのえる、飾るという意味から「山装ふ」と書くこともある。

 中国宋時代の詩画書「臥遊録」(呂祖謙編)に、「春山淡冶にして笑ふがごとし、夏山蒼翠にして滴るがごとし、秋山明浄にして粧ふがごとし、冬山惨淡として眠るがごとし」という詩があり、それが我が国にもたらされて季語になった。

 このうちで春の季語「山笑ふ」と冬の「山眠る」が非常にもてはやされ、古くから詠まれたが、この「山粧ふ」はあまり人気がなく、歳時記によっては独立の季語に立てずに「秋の山」の傍題としている。春の山が「笑う」、冬の山が「眠る」というのは、そう言われれば誰もがなるほどなあとうなずく、絶妙な表現である。これに対して秋の山が「粧う」は、紅葉して山がお化粧したようだという、かなりうすっぺらな修辞に過ぎない。言葉から受けるイメージも紅葉というものに固定化されやすい。つまり季語としての深味と広がりに欠ける。「山粧ふ」を用いて句を作ろうとすると、頭の中が紅葉黄葉の景色でいっぱいになってしまって、世界が広がらない恨みがある。

 しかし、そういったことを抜け出して、単なる紅葉の山ではなく、秋の自然界の変貌を代表する言葉として「山粧ふ」を捉え、後の七・五で心情吐露や事象を述べれば、面白い句もできそうである。普通は「ヤマヨソウ」と詠むが、「ヨソオウ」と読ませるように詠む場合もある。

 余分なことを言えば、夏の「山滴る」はほとんど季語とは認知されておらず、多くの歳時記は傍題にも採用していない。夏の季語として山や岩から湧き出す清水を言う「滴り(山滴り)」があり、これとの混同が恐れられたせいだろうか。しかし、夏山は「滴る」というのも捨て難い。


  谷底の朴より山の粧ふらし   皆吉爽雨
  滝になる水湛へたり山粧ふ   菅裸馬
  搾乳の朝な夕なを山粧ふ   波多野爽波
  粧へる山に働き石を切る   加藤三七子
  三山のことに羽黒の粧へり   角川照子
  粧へる山ふところの深さかな   成田昭男
  芭蕉像置き去りにして山粧ふ   斉藤郁

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