晴れて風の無い秋の夜、放射冷却によって地面に近いところの水蒸気が冷えて水滴になり、草木の葉や石の上や屋根に水玉が宿る。秋にもっとも多く見られる現象なので、万葉時代から秋の景物として詠われるようになった。
大量の露がまるで時雨のように、あたり一面をびっしょり濡らしてしまうような状態が「露しぐれ」。露にぬれてしっとりしている景色や、何となく露の降りそうな気配を「露けし」と言う。露のたくさん降りている野原を「露原(つゆはら)」、露を置いた草の下は「露の底」と言う。いずれも古くからの歌の言葉である。さらに、露が降りるような晩秋の頃の寒さを「露寒(つゆさむ)」と言い、「肌寒(はださむ)」「うそ寒」「秋寒し」などとほぼ同様に用いられる。そして露は、草葉に宿りはらはらこぼれ落ちるところから、「涙」のたとえにもなっている。
朝になって太陽が上り始めると、露はたちまち消えてしまう。そこから、露は「はかなきもの」の象徴とされ、「露の間」(わずかの間)、「露の世」(はかない現世、無常の世)とか、「露の身」「露の命」(露のように消えやすい、はかない命)などという言葉が生まれ、やはり和歌や俳句に多用されるようになった。だからと言って、こういう常套文句を安直に用いると、大概は失敗する。
小林一茶には「露の世は露の世ながらさりながら」(『おらが春』)という句がある。「露の世」という言い古された言葉と「ながら」を二度も重ねた、いかにも一茶らしい句である。一茶は幼くして母親に死に別れ、継母との折り合い悪く、安永六年(一七七七年)十五歳で江戸に奉公に出された。苦労の末、俳諧師となり全国各地を行脚して草鞋銭(わらじせん、今流に言えば「お車代」)を得ては江戸に戻るといったことを繰り返す生活をしていたが、五十歳にして故郷(信濃・柏原)に帰り、継母や異母弟と争った挙句、生家および田畑を二分し故郷に居着くことになった。五十二歳にしてようやく嫁を迎え小さな幸せを掴みかけたのだが、間も無く生れた長男を生後一カ月で死なせてしまい、次に生れた長女サトも二歳で死んでしまう。その時に詠んだのが「露の世は露の世ながらさりながら」であった。
一茶にしてみれば、手垢のついた言葉であることを十分承知の上で、「露の世」をあえて使ったのであろう。実はその二年ほど前に書いた『七番日記』には「露の世は得心ながらさりながら」という句を詠んでいる。今回はそれを推敲し、「得心ながら」という理屈っぽさを嫌い、「露の世」を重ねることによって、諦め切れない作者の気持を読む者に強く訴える慟哭の詩に仕上げている。それにしても、愛児の死に打ちひしがれながらも、一方ではそれを句に詠み、しかも何度も推敲を重ねるというのは常人のよくせざるところで、一茶という詩人の特異さを現しているように思える。それはとにかく、こういうのは例外的成功例で、後からこれを真似しようとしてもなかなかうまくいかない。
もっとも、俳句では言い古された言葉でも使い所がぴったりすると、新鮮な感じを与えることがある。しかし、そういうことは二番煎じが効かない。「早い者勝ち」ということもある。それが一茶の「露の世」にもあてはまる。
常套文句を使う使わぬはさて措いて、この「はかなく消えてしまう」という露の性質(本意)が、古今の俳人の心を捉えていることは確かである。露の名句には、露の美しさそのものを詠んだものも多いが、露に託した心境句が非常に多い。俳句という文芸は写生の裏に心境を詠み込むものなのだから当然だろう、と言ってしまえばそれまでだが、露の句の場合は心境吐露の度合いが取り分け強いようである。
やはり、「露」と来れば「はかなく消えてしまう悲しみ、空しさ」という思いが、作り手の頭の中に自然に湧いて来てしまうのではなかろうか。この固定観念を打ち破って新機軸の露の句を生み出すのは難作業だが、挑戦する価値がありそうだ。
病床の我に露ちる思ひあり 正岡 子規
露今宵生まるるものと死ぬものと 岡本 松浜
芋の露連山影を正しうす 飯田 蛇笏
蔓踏んで一山の露動きけり 原 石鼎
猫と生れ人間と生れ露に歩す 加藤 楸邨
白露や死んでゆく日も帯締めて 三橋 鷹女
ショパン弾き終へたるままの露万朶 中村草田男
金剛の露ひとつぶや石の上 川端 茅舎
今日生れし牛に露けき夕べ来ぬ 大木さつき
露けしや吉野町字吉野山 木村 緑枝