俳句で「月」と言えば秋のものと決まっている。月は新月や雨の日は別として一年中夜空にあるし、満月も三日月も毎月出て来る。それなのに、秋以外の月を俳句に詠む場合は、「いつの月なのか」が分かるように、その季節を特定する言葉を添えなければいけないという約束がある。例えば、春ならば「春の月」とか「朧月」「春三日月」、夏ならば「夏の月」「月涼し」、冬になれば「冬の月」「寒月」「月凍てる」という具合である。
「月と言えば秋」。それほどまでに秋の月は素晴しい、月は秋のものだという考え方が古来日本人の心に根づいているということなのであろう。
「十団子も小粒ニなりぬ秋の風」という句で有名な森川許六という俳人がいる。芭蕉の晩年になってからの弟子だが、師の教えを熱心に吸収し、芭蕉没後も向井去来と蕉風の正統を伝えることに努めた。去来と許六のやり取りがもとになって『俳諧問答』が成立、天明期の蕉風復興などに大きな影響を与えた。その許六が、「名月は八月一五日一夜なり。明月は四季に通ず」と述べている。つまり満月は四季を通じて毎月あるものだが、「名月」と言ったらそれは「八月十五日の月」で、それ以外の満月は「明月」とすべきだというのである。ここにも「月は本来秋のもの」という考えが貫かれている。
もちろんここで言う8月は旧暦(太陰太陽暦)である。旧暦は月の運行を基に編まれた暦だから、多少のずれはあるものの毎月一日は必ず「朔」、すなわち新月である。だから朔と書いて「ついたち」とも読むのである。そして、二日月、三日月とだんだんと上方に膨らんで行き、7、8日頃には上弦の月になり、15日には「望」(ぼう、もち)となる。やがて下から欠け始め、半月、下弦となり、真っ暗闇の新月になって三十日(みそか)ということになる。
新月から満月を経て新月に至る一朔望月は、厳密に言えば29.5306日なので、30日の大の月と29日の小の月をほぼ1ヶ月交代で繰り返し、12ヶ月で1年としたのが太陰暦である。この暦だと、月が全く見えない日は1日と30日(あるいは29日)、満月は15日というように決まっているから、誰にも分かりやすく便利である。しかし、これだと1年は354日にしかならず、実際の1年間(太陽年)よりほぼ11日も短い。従って太陰暦を使っていると、3年弱で季節が1ヶ月もずれてしまう。そこで2、3年ごとに閏月をはさむ太陰太陽暦(陰暦、旧暦とも言う)が古代中国やエジプトで考案された。奈良時代に中国からこれを取り入れた日本は、これに独自の改良を加えながら明治5年まで使っていた。
明治5年(1872年)11月9日、突如として太政官布告が出され、「12月3日を明治6年1月1日とする」としたから世間は大騒ぎになった。この太陽暦採用で、面倒な閏月が無くなり、立春は毎年2月4日頃、冬至は12月22日頃というように暦と季節のずれも解消された。しかしこれ以後、月の姿と日付は関係が無くなり、たまたま夜空を見上げて「おや今夜は満月だったのか」ということになった。「十五夜お月さん」が15日の夜に出るものとは限らなくなったのである。
旧暦では7、8、9月が秋だから、その真中の八月を「中秋(仲秋)」と呼んだ。そのまた真中の15日の晩に出る満月を「仲秋の名月」と尊び、奈良平安の昔から宮廷で観月宴が催された。それが下々にまで伝わって、江戸時代になると町家でも縁先に月見団子や里芋、すすきを供えて「月見」をするのが恒例になった。
中国唐王朝の「中秋節」の行事を取り入れて平安貴族の間に観月宴が流行したのだが、日本の民間ではそれよりずっと早くから月を崇め祀る習慣があったようである。実りの秋を感謝して月を仰いだのである。しかし、旧暦8月15日ではまだ農作物の取り入れが済んでいない所が多い。そのため民間では旧暦9月13日の「十三夜」を祀る方が盛んだったという説もある。それを宮中の方でも取り入れて、9月十三夜を「後の月」と呼び、もういっぺん月見の宴を行うようになった。8月十五夜が「芋名月」と言われるのに対して、後の月は枝豆や栗などを供えることから「豆名月」と呼ばれるようになった。しかし旧暦の9月13日は今の暦では10月半ばから下旬になってしまうから、かなり肌寒さを感じる月見となる。
とにかく、十五夜とその翌月の十三夜を中心とする秋の月は大昔から日本人の心を捉え、詩歌の重要な題材になってきた。春の「花」、冬の「雪」と並んで、和歌の世界では三つの代表的な季の詞とされている。俳諧連歌(連句)でも決められた場所に必ず「花」と「月」を詠む約束事がある。連句の発句が独立して生まれた俳句の世界でも、この精神は受け継がれ、「月」は花と共に季語の横綱の地位を保ち続けている。
昔の夜は本当に真っ暗だった。照明手段は松明、篝火、屋内ではローソクか油に浸した灯芯を燃やすのがせいぜいである。いずれも手間がかかるし、それに高価である。庶民は夜になれば寝るより仕方のない時代が長く続いた。明治19年(1886年)に東京電灯会社が電力供給事業を開始したが、庶民の家庭にまではなかなか手が回らず、昭和になってようやく都市部に行き渡り、全国に電灯が普及したのはなんと第2次大戦後のことなのである。
そういうわけだから、昔の人が月の光から受けた印象は現代の我々の想像もつかないほど強烈なものであったはずである。例外として、第2次大戦前後の混乱を経験した60歳代以上の人は、戦中の灯火管制や戦後の年中停電で「真っ暗闇」がどのような暗さなのか、月光がいかに明るいものかを知っている。
月は太陽と違って、しみじみと見つめることができる。毎晩その姿を少しずつ変えていく様も神秘的である。真っ暗闇から始って、細くうっすらとした二日月が現れ、徐々にふくらんでいって煌々たる「望の月」で完成。翌晩からまた細り始めて元の暗黒に戻る。こういうのを毎晩見つめていたら、人間誰でも何か物を思うようになる。仲秋の名月は台風シーズンでもあり、折角の満月が雲に隠れてしまうこともあるから、気をもむことも再三であっただろう。
昔の歌人や俳人は8月(旧暦)に入るや、月を詠もうと必死になった。夜空を見上げながら毎晩姿を変える月を詠み、指折り数えて満月を待った。それだから月にはいろいろの名前がついた。まず五日月、十日月、二十日月などと日にちで言う。特に「二日月」「三日月」「待宵(十四日)」「十六夜」は、「十五夜(名月)」と共に、特別視され和歌に詠まれた。それが俳句にも受け継がれて、それぞれ独立の季語として立てられた。十六夜の後も、徐々に月の出の時間が遅くなるのをとらえて、17日の月を「立待月」、18日を「居待月」、19日「寝待月」、20日月を「更待」と呼び、いずれも季語になった。時間の経過を詠むのに便利な季語である。
さらに、その形から「弦月」「上弦」「下弦」「弓張月」「月の弓」「片割月」「半月」「月の舟(半月のこと)」という季語もある。
また月には兎や蛙、鼠などの動物や、桂の大木が茂っているとか、壮麗な宮殿があるといった、多くは中国大陸からもたらされた伝説を基に、「嫦娥」「玉兎」「月の蟾」「月の桂」「月宮殿」といった異名が付けられ、これも和歌や俳句に用いられている。
そして待ちに待った十五夜。よく晴れて満月が無事に拝めるとずっぷりと幸福感に浸って「良夜」という季語を生み、曇れば曇ったで「名月の夜は月が無くても、なんとなくいつもの晩とは違う」と負け惜しみを言って「無月」という季語をこしらえ、本降りになってしまうと「雨月」と呼んだ。もうこうなると実際の月から遠く離れて、「月」というものへの思い入れが独り歩きしている。
芭蕉は「奥の細道」の旅で元禄2年(1689年)8月14日の夕暮れ、福井県敦賀市に入った。「その夜、月殊に晴たり。『あすの夜もかくあるべきにや』といへば、『越路の習ひ、猶明夜の陰晴はかりがたし』とあるじに酒すすめられて、けいの明神に夜参す(後略)」とあり、宿の主人のすすめに従って気比神社に出かけ、待宵の明月を眺めている。この神社は代々の遊行上人が参道整備に自ら砂を運ぶ習いだと聞き、「月清し遊行のもてる砂の上」という句を詠んだ。そして危ぶんでいた通り、「十五日、亭主の詞にたがはず雨降る。『名月や北国日和定めなき』」と残念がっている。
その翌月、旧暦九月の「十三夜」にも「後の月」「名残の月」「後の名月」「姥月」「豆名月」「栗名月」などの言い換え季語がたくさん生れて、数々の名句が詠まれている。ただし、後の月は季節柄、寂しさ、肌寒さを詠んだものが多い。
月はやしこずゑは雨を持ちながら 松尾芭蕉
月天心貧しき町を通りけり 与謝蕪村
子規逝くや十七日の月明に 高浜虚子
灯を消すや心崖なす月の前 加藤楸邨
三日月の沈む弥彦の裏は海 高野素十
待宵を終に雨来し梢かな 大谷句仏
山濤や無月の空の底明り 志田素琴
十六夜や溲瓶かがやく縁の端 日野草城
古き沼立待月を上げにけり 富安風生
居待月芙蓉はすでに眠りけり 安住敦
食後また何煮る妻か寝待月 本多静江
更待や階きしませて寝にのぼる 稲垣きくの
名月や池をめぐりて夜もすがら 松尾芭蕉
酒くさき鼓打ちけりけふの月 榎本其角
名月や煙はひ行く水の上 服部嵐雪
十五夜の雲のあそびてかぎりなし 後藤夜半
望月のふと歪みしと見しはいかに 富安風生
名月や格子あるかに療養所 石田破郷
満月の暗闇多き奈良の町 加藤知世子
木曾の痩もまだなをらぬに後の月 松尾芭蕉
川音の町へ出づるや後の月 加賀千代女
後の月葡萄に核のくもりかな 夏目成美
露けさに障子たてたり十三夜 高浜虚子
灯を消せば炉に火色あり十三夜 小杉余子
遠ざかりゆく下駄の音十三夜 久保田万太郎