中南米が原産のナス科の1年草で、コロンブスの新大陸発見以後、ジャガイモ、トマトなどと共にヨーロッパにもたらされた。
もともとコロンブスなど冒険航海者たちが輩出するようになったのは、インドや東南アジアの香料を船で運ぶための新航路を開くという目的だった。陸路では険しい山坂や砂漠越えがあり大量に運ぶことが出来ず、途中の中近東一帯には山賊が出没する。地球は丸いようだということが分かりかけてきたので、ヨーロッパを出て西へ西へと進めばいつかはアジアやインドに行き着くはずだと考えたのである。当時はアメリカ大陸の存在は知らなかったから、カリブ海にたどり着いたコロンブスはてっきりインドに到着したと思い込んだ。お目当ての香料は見当たらなかったが、タバコをはじめ珍しいものが手に入った。
ヨーロッパの人達は大昔から牛や豚の肉をたらふく食べていたように思いがちだが、そんなことはなく、中世ヨーロッパでは庶民は牛豚肉を祭の時くらいしか食べられなかった。デューラーの絵などを見れば、肉が大ご馳走であったことがよく分かる。近世になって農業生産技術がある程度進歩し、家畜飼料が割りに豊富に得られるようになって、ようやく庶民階級も肉にありつけるようになった。
とは言え肉類は相変わらず貴重品であった。しかも、肉はすぐに腐ってしまう。これを永持ちさせるには干すか塩漬けにするか、酢に漬けるかしか方法が無い。だから当時は腐敗寸前、あるいは半分腐りかけた臭い肉も食べていたようである。そのおかげでこの腐りかけの肉というのが実はなかなか旨味があって捨て難いものであることも知った。野生の獣の肉や野鳥類は捕獲したばかりは固くて独特の臭気があるが、何日かたつと柔らかくなり独特の旨味が生じる。だから今日でも鴨などは捕ってから一週間くらいは戸外に吊しておく。
旨味の問題はさておき、とにかく腐敗しかけて臭くなった肉を美味しく食べられるようにと臭い消しの香辛料が発達した。同時に香辛料は防腐作用もある。こうしてヨーロッパ人は身近な所で手に入る山野草、木の実の中でもきつい香りの物を選んで、肉にまぶし、塩とからめて貯蔵した。たとえばマスタード(西洋辛子)やショウガ、ニンニク、ネギ類、各種のハーブ類である。漬け込む時だけでなく、肉を焼いたり煮たりする時にも用い、食膳に供する時にも皿に添えた。
十字軍の遠征(第1回は1096年)以降、中近東、アフリカなどとの交流が活発化すると、アラブ経由で熱帯東洋産のコショウ、クローブ(丁子)、シナモン(肉桂、桂皮)、ナツメッグ(にくづく)といった素晴らしい香料が続々と入って来た。これらはそれまでのヨーロッパにあったハーブ類に比べ香りも味も強烈で、これによって肉類がますます旨く食べられるようになり、ヨーロッパ人たちはその魅力に取り憑かれてしまった。12世紀半ば、イタリアのジェノヴァ、ピサ、ナポリ、ヴェネチアなど沿岸都市国家が軍事力をつけてイスラム教徒との戦いに勝ち、地中海を制圧して東方との交易ルートを確保した。これでますますアジアの香料、染料、絹などが大量に欧州にもたらされるようになった。
1298年、ジェノヴァとヴェネチアが地中海の覇権を争うクルゾア沖海戦が起こった。その時ジェノヴァ軍の捕虜になって獄中でほら話ばかり吹いて有名になった男がいた。その男、マルコ・ポーロというヴェネチア商人が喋りまくる話があまりにも面白いので、同じく捕らわれていたピサの物語作者ルスチケロが聞き書きして一本にまとめた。これが「東方見聞録」である。これによって初めて、ヨーロッパの人達はあの素晴らしい南方の香料がどこでどのようにして採れるのかを知ったのだった。
それからざっと190年後、この本の魅力に引きつけられたコロンブスは、フィレンツェの地理学者トスカネリから「リスボンからカナリア諸島へ出て、さらに西へどんどん行けばキンサイ(中国杭州)に着くはずだ」と教えられた。トスカネリの地図には、アフリカ大陸の西北の肩のあたりに位置するカナリア諸島の向こうは大海原で、それを渡るとアメリカ大陸ではなく、日本、中国、インドなどが描かれてあった。これを鵜呑みにしたコロンブスはやっとの思いでたどりついたバハマ諸島をインドだと思い込んだ。
しかしマルコ・ポーロの本に書いてあった金殿玉楼の大都市どころか、黄金も香料も見つからない。さぞかしがっかりしたことだろうし、怒りもしたのだろう、コロンブスは近寄って来る原住民を手当たり次第に捕まえ、500人を船に押し込んだ。現地で採集した植物、食料品も一緒に積み込んだ。哀れインディオたちは途中で半数近くが死んでしまい、残りのざっと300人はスペインで奴隷として売られてしまった。
コロンブスのアメリカ発見航海は世界史上の快挙とされているが、実際は物凄いものだったようである。何しろ荒くれ男ばかりだから、虐殺暴行の限りを尽くし、ハイチでは推定25万人居たと見られる原住民が数年で半減してしまったという記録が残されている。今日ニューヨークなどで、コロンブス・デーなどとお祝いパレードが行われているのを見ると、つくづくいい気なものだと思ってしまう。
コロンブスはその後10年ほどの間に合計4回、この西インド諸島海域をアジアの一角と信じたまま出掛けている。その航海で持って来られたのがトマト、ジャガイモ、ナス、タバコであり、トウガラシであった。トウガラシはその色と辛さで、ヨーロッパ人に強烈な印象を植え付けたのであろう、たちまち欧州各地に広まった。
元来は熱帯植物なのだが、ヨーロッパでも春に種を蒔けば夏から秋にかけて次々に採れる。カロチンや各種ビタミンが豊富に含まれている。もともとろくな野菜が無かったヨーロッパでは実に重宝な作物である。辛みの元であるカプサイシンは食欲増進、病虫害予防、防腐作用もある。品種改良が積極的に行われ、ほとんど辛味の無いピーマンやシシトウのようなものまで生まれた。
特に南欧、東欧ではよく育ち、そこに住む人達の好みにも合ったのだろう、あたかもトウガラシの本場のようになった。ギリシャ、トルコ、ハンガリー、ブルガリア、旧ユーゴスラビアあたりでは、大型のピーマン(パプリカ)に挽肉を詰めてトマトソースで煮込んだものが郷土料理として定着した。
トウガラシは日本にもずいぶん早く、16世紀には渡来している。秀吉の朝鮮出兵で種子が持ち帰られたという説と、ポルトガル人が長崎にもたらしたという説がある。もともと日本には、香辛料としてワサビとカラシ(和辛子)があった。辛子はアブラナ科の芥子菜の種を粉末にしたもので、奈良時代から食べている。1500年代半ばにやって来たこの真っ赤な辛い実は、唐(外国という意味)の辛子だというので、「唐辛子」と名付けられた。一方、コショウも奈良時代に中国経由で入って来ており、南蛮人が新たにもたらしたコショウに似た辛味の元というわけで、唐辛子には「南蛮胡椒」という呼び名もあった。いまでも地方によっては唐辛子を「なんばん」と呼ぶのはその名残である。
夏場になると大人の腰のあたりまで青々と葉を茂らせる唐辛子に白い可憐な花が咲く。やがて筆の穂先のような形の緑色の実がなり、秋になると真っ赤に色づく。緑の葉陰に房のようになった真っ赤な唐辛子はとても美しい。これを摘んで乾燥したものが唐辛子。残った青い葉を醤油で煮詰めたものが葉唐辛子の佃煮で、日光名物のおみやげになっている。
唐辛子の辛味は発汗作用があるから、汗をかいて体温を下げるために熱帯地方で盛んに食べられる。暑いインドで生まれたカレー粉の辛味の主役は胡椒と唐辛子であり、熱帯ジャマイカ産のタバスコも唐辛子の絞り汁を発酵させたものである。一方カプサイシンには保温発熱効果もあるから、唐辛子は寒い地方でもよく利用される。冬場になると滅法寒い朝鮮半島では有名なキムチの材料になった。同じく冬の厳しい東欧・バルカン半島各地ではむちゃくちゃに辛い青唐辛子を塩酢漬けにしたものがあり、これと山羊のチーズを交互にかじってはスモモの焼酎を飲む。身体中がほてった感じになり、ぽかぽかして来るのは確かだが、やり過ぎると物凄い二日酔いに見舞われ、数日は胃の具合がおかしくなる。
日本は温帯だから本来あまり辛いものは必要が無いはずなのだが、香辛料が大好きな民族のようである。東京・薬研堀や長野・善光寺などの七味唐辛子、九州地方の唐辛子をペースト状にしたカンズリなど、江戸時代から親しまれてきた唐辛子の薬味がある。唐辛子は食べるだけでなく、米櫃に入れて防虫剤にしたり、布で巻いて背中や腰に当てて保温や凝りをほぐしたり、旅をする時に土踏まずに巻き付けておいた
り、いろいろ利用された。
美しや野分のあとの唐辛子 与謝蕪村
はらわたもなくて淋しや蕃椒 正岡子規
とり入るる夕の色や唐辛子 高浜虚子
炎ゆる間がいのち女と唐辛子 三橋鷹女
ピーマンの韓紅や恐るべし 相生垣瓜人
唐辛子少女にげ腰にて干しをり 加藤知世子
きびきびと爪折り曲げて鷹の爪 村上鬼城
母下げし高さに赤し唐辛子 田中愛子
ひととびに寒さ来る地ぞ唐辛子 村越化石
革命は望めねど紅唐辛子 川崎光一郎