芒(すすき)

 秋風が吹く頃ともなれば、近郊の野山では芒(薄)が一斉に穂を出し、人を招くようになびく。都会でも公園や路傍に一群になって咲いているのを見かける。地味な花なのによく目立つ。よく目立つのに何となく寂しい感じを漂わせている。そんなところが日本人の感性に合っているのか、万葉の時代から今日に至るまで、短歌、俳句はもとより歌謡曲にまで歌われている。

 芒あるいは薄とも書くが、俳句ではどちらかといえば「芒」の方がよく使われているようだ。イネ科の多年草で、日本中至るところの山野、ことに栽培植物のよく育たないような荒れ地に大群落を作る。河原や土手など日当たりの良い場所は芒の絶好の繁殖地となる。一時、花粉症の元凶として忌み嫌われたブタクサとセイタカアワダチソウというアメリカからの帰化植物が、地上げで更地になった場所に繁茂して猛威を振るった。ところが、そこに一旦ススキが生え始め、数年たつと、凶暴なブタクサやアワダチソウを駆逐されてしまったという。ススキはそれだけ日本の風土に合った草なのであろう。

 青々と茂っていた芒が秋になると真っ直ぐな茎を伸ばし、先端に黄褐色あるいは紫がかった褐色の穂(花)を出し、やがてぱらりとほぐれる。これを特に「尾花」と言い、山上憶良は『秋の野に咲きたる花を指折りかき数ふれば七種の花 萩の花尾花葛花なでしこの花女郎花また藤袴朝がほの花』(万葉集巻8)と、芒を秋の七草の一つに挙げている。尾花はまた花薄とも詠まれる。

 晩秋になるにつれ、花穂は白っぽくなり、少しの風にもなびくようになる。広い野原一面に芒が咲き、風が吹くと一斉に波打つ様子は見物である。さらに季節が進むと花穂の繊毛や種がすっかり飛び去って、穂はすがれてしまう。その頃には薄全体が白茶けた枯れ色になり、一層哀れを誘う。これが「枯芒」で冬の季語。春先、枯れ芒は焼き払われ、真黒になった野原から薄緑の芽がちょこちょこと角ぐむ。これが「末黒の芒」で春の季題。夏の青々した威勢の良い姿は「青芒」で夏の季語と、芒は四季を通じて歌や俳句の材料になってきた。

 詩歌の材料になるばかりではない。芒は昔の日本人の暮らしに無くてはならない植物であった。屋根の重要な材料になったからである。藁葺き屋根と言われるように、あの分厚い草葺きには稲ワラがかなり使われるが、ワラだけでは強度が足りず腐食しやすいので芒が大量に用いられた。この場合は「萱」と呼ばれた。萱とは、ススキの他にチガヤとかカルカヤなどを含めた総称である。稲が栽培出来ないような地方では芒を始めとした萱類だけで屋根を葺いたのだろう、カヤブキという呼称もおなじみである。

 屋根の葺き替え作業は大事業で、とても自分の家一軒だけでは出来ない。村では「今年は五兵衛の家と弥次衛門の家」というように順番を決め、村中総掛かりの共同作業を行った。そして、そこで用いられる萱は共用の荒れ地である萱場から刈り取る。

 萱場は大概村はずれにあって、普段は人など近寄らない。時々若い男女の逢瀬の場所になる以外は、もっぱら狐狸や猪、野兎の運動場である。狐火とか狐の嫁入りなどというのも、おおむねこういう所に出た。


  何ごとも招き果てたる薄かな   松尾芭蕉
  招き招き枴の先の薄かな   野沢凡兆
  (枴は荷をかつぐ天秤棒のこと)
  君が手もまじるなるべし花芒   向井去来
  ちる芒寒くなるのが目にみゆる   小林一茶
  この道の富士になりゆく芒かな   河東碧梧桐
  取り留むる命も細き薄かな   夏目漱石
  をりとりてはらりとおもきすすきかな   飯田蛇笏
  山越ゆるいつかひとりの芒原   水原秋櫻子
  座布団に芒の絮が来てとまる   富安風生
  走るなりさうしなければ皆すすき   高柳重信

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