相撲(すもう)

 相撲は俳句では初秋の季語とされている。奈良・平安時代、毎年7月(陰暦)に宮中で相撲節会(すまいのせちえ)が行われたため、秋の行事ということになった。

 日本では大昔から、神に豊作を祈願する祭の時や、懸案事項について神前で吉凶を占う際などに、力競べ、組打ちなどの格闘技が盛んに行われていたらしい。神話には、天照大神の命を受けて大国主命に国譲りを迫るため出雲の国に下ったタケミカズチノミコトが、タケミナカタノミコトと力競べをしたという話がある。さらに第11代垂仁天皇7年(紀元前23年)には、出雲の勇者野見宿禰が葛城出身の大力無双の強者当麻蹶速と天皇の御前で闘い、スクネがケハヤを蹴り殺したという話が日本書紀に載っている。これが最古の天覧相撲とされ、宿禰は相撲の神様になっている。

 伝説の勇者はさておき、史書に記録された最初の相撲節会は聖武天皇の天平6年(736年)7月7日に行われた。七夕祭の景物だった節もある。とにかく古代の相撲は神事であった。

 相撲節会は奈良時代には不定期に行われていたが、桓武天皇の延暦12年(794年)から毎年7月末に定期的に催されるようになった。これはかなり大掛かりな行事で、毎年2月に諸国に相撲人(すまいびと)を出すよう命令を発し、集った各県代表選手は7月26日にまず皇居の仁寿殿の庭で内取(うちどり)という予選会に臨んだ。相撲人は今のように裸ではなく、褌の上に袴をはき、狩衣を着て組み打つ。28日はいよいよ本番の召合(めしあわせ)。紫宸殿前の本会場で、予選を勝ち抜いた40人による20番の取組が行われ、ここで優秀な成績を収めた勇者は翌29日に抜出(ぬきで)という決勝戦に出場した。

 晴れの天覧相撲に出場するのだから、各国ともかなり力が入ったに違いない。諸国の有力者は家の子郎党の中から選りすぐった力自慢を鍛え、こうした晴舞台に送り込んだ。

 芭蕉の句に「むかし聞け秩父殿さへ相撲とり」というのがある。秩父殿というのは源頼朝の有力武将畠山重忠のことで、『古今著聞集』に重忠が東国八カ国一と言われた大力長居と相撲を取って負かしたという逸話が載っている。芭蕉はこれを踏まえて、「昔話を聞いてごらんよ、秩父殿などと重々しく奉られた人だって相撲取だったんじゃないか」と諧謔を効かせている。このように、鎌倉時代あたりまで相撲は武士の余技だったようだが、室町時代には専門の相撲取(力士)が登場するようになった。さらに江戸時代になると、諸国の大名が強い力士を発掘しては召し抱え互いに競わせるのが流行し、やがてそれが独立して大相撲興行に発展していった。

 江戸の大相撲は深川の富岡八幡宮、後には両国の回向院境内で行われたが、いずれも建前は「千秋万歳(千年万年)」の幸を神に祈る神事であり、奉納相撲であった。出雲、常陸、陸奥などと出身国の名誉を担った力士たちが技と力を競うスポーツであると同時に儀式であった。この本場所の他、全国各地で相撲は盛んに行われ、それらは大概、秋祭に合わせて行われる事が多かった。そういう素人相撲は「草相撲」「宮相撲」と呼ばれる。

 江戸時代の大相撲の習慣は今日も残っている。例えば番付の四股名の上には力士の出身地が書かれ、場内アナウンスでも登場力士を「東京都墨田区出身、何々部屋」などと紹介している。横綱土俵入り、四股を踏む、三役揃い踏み、土俵祭等々、一事が万事普通のスポーツ競技とは異なっている。ところが最近は力士の出身国もモンゴル、ブルガリア、ロシアと広がりを見せ、国技館の雰囲気がすっかり変ってしまった。

 それに年間6場所開催になっているから、「何で相撲が秋の季語なんだ」ということにもなる。実際、「相撲」と聞いて即座に「秋」の気分に浸れる人はまずいないだろう。むしろ、隅田の川風にはためく幟などから「夏場所」を思い浮かべ、夏の季語だと思う人が多いのではないか。

 しかし俳句の伝統を尊重すれば、相撲はやはり秋。せいぜい秋の雰囲気を盛り込んで句作するより仕方があるまい。その他の場所については「初場所」「春場所(三月場所)」「夏場所」「名古屋場所」「九州場所」などと一々断らなくてはならない。

 相撲を「角力」と書くこともある。「勝相撲」「負相撲」「相撲取」「土俵」なども、従って秋の季語である。


  負まじき相撲を寝物語かな   与謝蕪村
  やはらかに人分け行くや勝相撲   高井几董
  べったりと人の生る木や宮相撲   小林一茶
  相撲取のおとがひ長く老いにけり   村上鬼城
  合弟子は佐渡へかへりし角力かな   久保田万太郎
  入念の仕切らちなや負相撲   五百木瓢亭
  宿の子をかりのひいきや草相撲   久保より江
  しばしまへ泣いた子もゐる草相撲   上村占魚
  山里は磐を祀りて相撲かな   矢島渚男
  島角力賞品の山羊ひきずられ   中島遊魚

閉じる