江戸時代の図入り百科事典「和漢三才図絵」に、西瓜は黄檗宗開祖の隠元禅師が中国から種子をもたらし、それを長崎で育てたのが日本での栽培の始まりだということが記されている。隠元禅師は徳川四代将軍家綱の招きに応じて承応3年(1654年)に来日した。その時に、今日、インゲン豆として親しまれている豆の種子などと一緒に持って来たのであろう。
胡瓜が飛鳥時代(6世紀末から7世紀前半)に日本に入って来たのと比べると、西瓜はずいぶん新しい。隠元禅師の前にも、もしかしたら西瓜そのものが唐船に積まれて長崎あたりへ運ばれたことがあるかも知れないが、信長も秀吉も家康もどうやら西瓜を食べずに死んだようである。
西瓜はよほど日本人の好みに合ったのだろう、瞬く間に広がり、1700年代の初めには江戸でも大阪でも一般の人たちが盛んに食べるようになっている。夏の真っ盛り、蒸し暑い日本では、井戸で冷やした水分たっぷりの西瓜はこの上ないご馳走だったに違いない。
世間にもてはやされる物を取り上げるのが俳諧師の常だから、当時の俳人たちは競って西瓜の句を作っている。芭蕉とも親交のあった山口素堂は「西瓜ひとり野分をしらぬあしたかな」と台風一過の西瓜畑を詠んだ。蕉門十哲の長とも言うべき向井去来は「こけさまにほうと抱ゆる西瓜かな」、貴重品の西瓜を割ってなるものかという必死の動作を捉えている。
同じく十哲の一人、各務支考には「出女の口紅をしむ西瓜かな」という句がある。この句は宿場の旅籠などで客を引く商売女(出女)が、さあ仕事だと、化粧を済ませたところへ西瓜が出てきたという情景である。かぶりつきたいが、せっかく引いた口紅が落ちちゃうし、「どうしよう、困ったな」というところだ。
炭太祇は江戸の人だが晩年を島原の遊廓の食客として過ごし、蕪村とも交流のあった洒脱な俳人で、「畠から西瓜くれたる庵主かな」という句を残している。太祇にしても庵主さまにしても、生臭さはとうの昔に振り払っているはずなのだが、何とはなしにほのぼのとした交情が感じられる句である。これも西瓜というユーモラスな役者の醸し出す味であろう。
西瓜はアフリカ大陸中部の熱帯地方が原産で、古代エジプト時代に北部アフリカから中近東、ヨーロッパ南部に伝わり、その後中国やアメリカに伝播したようである。昔は果肉も食べたが、主として種子が珍重されたらしい。中国にはいまだにそれが残っていて、西瓜の種子が盛んに食べられている。恐らく隠元禅師が日本に持って来たのも種子を食べるための西瓜だったのではないか。ところが日本では種子を食べる風習は根づかず、もっぱら赤い果肉がもてはやされるようになった。
明治時代になって、果肉用の品種がアメリカからもたらされ、それが改良され日本独特の素晴らしい食用西瓜が次々に生れた。第2次大戦後は三倍体の種無し西瓜が作られ、縁台に座って西瓜にかぶりつきながら種子をプップッと吐き出す光景も見られなくなった。その上、西瓜を冷やすための井戸も姿を消し、もっぱら冷蔵庫で冷やすようになったから、今日では冷蔵庫に収まりやすい小玉西瓜がもてはやされている。
西瓜は秋の季語とされているが、実際には夏にもっとも真価を発揮する果物である。ことに最近は4、5月頃から市場に出回るようになっている。西瓜は夏休み、海水浴、キャンプなどにつきものでもあり、やはり夏の物とした方がいいように思う。
西瓜切るや家に水気と色あふれ 西東三鬼
おのが焼け跡にて西瓜にかぶりつく 荻原井泉水
両断の西瓜たふるゝ東西に 日野草城
どこにこのしぶとき重さ西瓜抱く 山口誓子
風呂敷のうすくて西瓜まんまるし 右城暮石
いくたびか刃をあててみて西瓜切る 山口波津女
西瓜切る妻亡く西瓜飾りおく 久保田穎居
西瓜赤き三角童女の胸隠る 野澤節子
西瓜到来祭のごとく人集ふ 山田みづえ
西瓜食ぶ海のにほひのレストラン 北川みよ子