秋思(しゅうし)

 古来、秋はもの思う季節というのが通り相場である。暑い夏をようやく越した身体はかなりくたびれている。なんとなく力が入らない感じである。日は短くなり、朝夕が涼しくなり、木々の葉は輝きを失い、やがて紅葉しはじめる。野分が吹いたり、秋霖という言葉があるように梅雨のような雨が続いたりする。こういう不安定な気候も手伝って、いろいろな事を思い悩んだりもするのであろう。身体がだるくなるのは、やがて来る厳しい寒さを乗り切れるよう、五感が「休め」の号令を出したということなのだろうか。

 新古今集に「三夕の歌」というのがある。

  心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ   西行
  さびしさはその色としもなかりけり真木立つ山の秋の夕暮れ   寂蓮
  見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ   藤原定家

 という有名な三つの歌だが、いずれも秋の夕暮れの物思いにふけっている。もの思う秋の中でも、とりわけ夕暮れどきが著しいということであろう。

 さらに秋の物思いの歌で極め付きとも言うべきは、古今集の「木の間より漏りくる月の影見れば心づくしの秋は来にけり」である。「心尽くし」と言うと、現今は「心づくしの品々」などと「心をこめた」ものの意味で使われることが多いが、元来はこの歌のように「気をもむ」とか「いろいろ物思いする」という意味の言葉である。だからこの歌は、「木の間に射し込む月光が微妙な陰影をつくる。その光景をしみじみ眺めていると、あれこれもの思いにとらわれて心がへとへとになってしまう。そんな秋がもう来たのだなあ」、というところであろうか。この歌の作者について古今集では「読み人しらず」となっているが、小野小町の作という説もある。

 芭蕉にも物思いに沈む秋の暮れを詠んだ有名な句がある。元禄7年(1694年)9月、故郷伊賀上野での長逗留を切り上げた芭蕉は、奈良経由で大阪に入った。ここでも引っぱりだこの芭蕉は、寒気と発熱を押して連日のように句会に出た。そして26日の句会で、次の句を披露した。

  この道や行く人なしに秋の暮れ

 この句は一見したところ、寂しく厳しい晩秋の旅路の夕暮れ時をすっと詠んだ写生句のようである。しかし、この句にはわざわざ「所思」という前書がつけられている。それを考えると、これは芭蕉が心情を吐露した句であることが確かである。

 こうして大勢の弟子たちが連日のように慕い寄って来ては宗匠と奉ってくれるが、蕉風を本当に理解してくれる者はほとんどいない。それどころか、ちょっとうまくなったと思えば、もう勝手な方向へ走ったり、中には仲間喧嘩や派閥争いまで始める。ところが自分はもう50歳、身体も弱り果てている。世帯が大きくなったが故に緩んだタガを締め直そうにも、もはや自分には体力気力が十分に残ってはいない。そういった孤独感、淋しさにさいなまれている芭蕉の姿が浮かび上がって来る。

 さらに芭蕉は同じ日に、「この秋は何で年寄る雲に鳥」という句も詠んでいる。今年の秋はいつもと違って何でこう年老いた気分に落ち込んでしまうのだろうか、茫然として空を見上げれば鳥が遠く雲間に消えていく……。これはもうどうしようもない寂寥感がにじみ出ている句である。

 実際、芭蕉はこれを詠んで3日後に寝付いてしまい、半月後の10月12日、息を引き取ってしまうのである。

 「秋思」という季語が抱えている意味合いは、このような古歌や古俳諧に詠まれている「秋のもの思い」と同様だが、「シュウシ」という固い漢語の響きのせいで、厳しさが一層増すような感じがする。杜甫の「秋思雲髻(うんけい)を抛ち、腰肢宝衣に勝る」という詩から出てきた季語だとされている。物思いにふけって髻(もとどり)ががっくり傾くほどだと言うのだから、かなりのものだが、艶な感じもある。

 これが季語として立てられたのは、山本健吉説では昭和31年の「新俳句歳時記」が最初だという。ずいぶん新しい季語だが、作例はかなり多い。これより古く、戦前に季語として定着していた「春愁」と共に、現代俳句では人気の高い季語である。

 「秋思」に類似の季語には「秋懐」「傷秋」「秋あはれ」「秋さびし」がある。


  山塊にゆく雲しろむ秋思かな   飯田蛇笏
  頬杖に深き秋思の観世音   高橋淡路女
  秋思あり莨火風に燃えやすく   西島麦南
  爪切れど秋思どこへも行きはせぬ   細見綾子
  秋思ふとベンチの憩ひやや久し   木村蕪城
  この秋思五合庵よりつききたる   上田五千石
  盃中に秋思の翳の移りけり   京極杜藻
  秋思とも齢ともただ坐してをり   村越化石
  人憎し秋思の胸に釘うちこむ   稲垣きくの
  秋淋し綸を下ろせばすぐに釣れ   久保田万太郎
  秋あはれ山べに人のあと絶ゆる   室生犀星

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